~長野県国保の地域医療が残った~『何故?私はここにいるのか?』
1961年の祖母の死
『おばあちゃんはもうそろそろのようだからお見舞いにおいで』と母から電話があったのは、医学部専門課程2年生の初夏であった。玄関の戸を開けると山に続く裏庭の6月の陽光に映えた庭木のグリーンを背に、お座敷に寝た祖母のシルエットは、本当に、本当に小さく見えた。晩年、大腿骨頸部骨折で膝行って動いていた祖母は、なかなかの健啖家で、お茶碗二杯のご飯を平らげていたが、S36年、80歳の春先から食が次第に細くなり、6月に入ってからは水も余り摂らなくなった。二~三日前からは意識もぼんやり、すやすやと眠り続けていた。脱脂綿に水を含ませて吸わせてあげたが、その数日後、家族に囲まれ、眠るがごとく静かに息を引いた。当時、既にリンゲルと言う輸液が無かった訳ではないが、大学病院の沖中内科の病棟でも点滴等を見掛けたこともなく、歳をとって食べなくなればそれはヒトの死で、新緑を背景の死の床は大変さわやかで、至って自然なものであった。
【何故医者に】
『頼りにならないお医者様が多くて、困ったものね。ちっとも科学的でないのだもの。』小学校の何年生だったであろうか?もう、遠い遠い昔のことで、定かではないが、母の声が、今でも耳元にある。これが私が医師になろうと、子供心に考え始めたそもそもの始まりであったと思う。
<でも、医師になった今、当時の医師よりも、はるかに多くの医学知識を持っているが、人間が医学・医療で判っていることなど、ほんのちょっぴり、科学的にキチッと説明が付くことは少ない。>
昭和12年生まれの私は物心付いたのが5歳の時。秋田県能代市の鉄道官舎の庭先であった。回らぬ舌で、“紀元は二千六百年、ああ一億の、、、”とか言う歌をよく歌っていたと、聞かされる。青い青い空に、二葉翼の真っ赤な練習機がブルブル、ブルと宙返りを打っていたのが、今でも、ハッキリと記憶に残っている。私の人生の記憶は軍国日本へと真しぐらに進む時に始まっている。
小学校に入学したのが新潟市の白山小学校。鉄筋コンクリート建て、一学年六組の大きな学校だった。直ぐに、父の転勤で長野市の山王小学校に転校。更に、戦況の悪化により疎開も兼ねて、家族は父の故郷・別所温泉の家へと帰った。別所村の小さな小さな小学校に転校して、二年の時終戦を迎えた。農地改革で不在地主とか?大部分の農地は無くなり、保有米も無くなり、配給もしばらく来ない混乱の時。どうやって食べていたのか?その“ひもじさ”は、想像を絶する時代であった。干した大根の葉っぱが浮いた水ばかりの雑炊。なかなか飲み込めない“ふすま”の団子をこんがりと焼いて、なんとか囓っては飲み込んだが、その後猛烈な胸焼けに悩まされたこともあった。
弟は栄養失調で腹ばかりふくれてよく下痢をし、医者通いをしていたから、そんな時、母の話した言葉であったのかも知れないが、考えてみれば、食べ物は勿論、着るものも、履くものも碌になく、貧乏のどん底時代の子供の描いた夢。私が、もしも姉たちと同じく、もう数年早く生まれていたら、とても、とても、大学なぞに行けずに、叶わぬ夢に終わっていたのであろう。
【小学校の頃】
不在地主で僅かに残った田畑も、家族が実際に耕作しなければ、没収されるとのこと。まったく鍬など握ったこともなかった母を先頭に、日曜には女学校に行っていた二人の姉は勿論のこと、栄養不足で頭ばかり大きいく細っぴぃの私も殆ど毎日、学校帰りには田畑に寄った。後で考えて見れば、随分と不相応の仕事をしたと思う。それぞれの時期に、殆ど一人前以上の仕事をした。代掻きの牛の鼻面取り、田の草切り、田植えをして、一番草には流石に除草器の大きさに体格が合わなかったが、お面を被っての田の草取りは、暑くて、痒くて、そして疲れて、腰の痛くなる苦労仕事であった。足踏み式脱穀機は流石に無理であったが、稲刈り、はぜ掛け、稲運びはもっぱら家族の仕事であった。ある年には雇いの人が急に来られなくなって、見よう見まねでやった畦塗りも、オケラに穴を開けられたが、秋の収穫までキチッとその役割を保つなど、人間やる気になれば、やらざるを得なければ可成りのことが出来るものだとつくづく思った。その上、ウサギや山羊、鶏の世話は、当然、全部私の仕事で、毎日毎日のこと。自分がスッポリ入ってしまうほどの背負い籠に草を一杯に採り,ヨタヨタと家まで運ぶのも、これまた可成り辛い仕事であった。山林は幸い改革外で残ったので、燃料の薪や炭はナラ、クヌギや雑木から自給できた。山仕事も、人を雇っての家族の仕事で、伐採・薪作りや消し炭焼きも一通りの経験をした。特に、大鉈を振るう薪割りは、力ではなく、‟こつ“があり、今も得意技である。当時の農村の子供の仕事は皆、何でも全部やった。
<貧乏だが、豊な自然の中で、、、。>
敗戦からの混乱が徐々に治まり、畑作が安定して来ると小麦、大麦、馬鈴薯、薩摩芋、カボチャ等が代用食として米の不足を補い、大根、人参、ナス、トマトを始め多くの野菜類が栽培されて、食も徐々に安定を取り戻した。畑作は当然、肥料・殺虫剤はなく、下肥、堆肥により、除草・除虫も人手によったもので、テントウムシダマシの大発生には苦労したが、モンシロチョウや青虫はいたが、キャベツ大根、人参、ナス、トマト等の一般の野菜も現在と比較にならないほど旨かった。特に、サラダ菜の独特の風味、二十日大根の瑞々しさは自給自足であったためもあろうが、今は味わえない。野沢菜漬けは言うに及ばず味噌や沢庵、もろみ等々の発酵食も当然自給自足であった。蛋白質系の量は現在とは比較も出来ないが、鶏卵、山羊乳、味噌が主要なもの、種々の豆類に豆腐で、偶に、魚を買う以外は全部自家自給で済んだ。暮れに正月のみは飼育のうさぎや鶏肉が特別の品であった。イナゴ、足長蜂の子やドジョウ、時に川エビもと結構内容は豊富であった。
*一方、レンゲ草の絨毯に寝転がり,モンシロチョウやモンキチョウの乱舞を見、多くの虫たちのブンブン、ブンブンと言う羽音を聞き、熊ん蜂を捕まえては蜜を奪い、オオムラサキやカブトムシの樹液を巡る争いを観察し、蛍の乱舞する有様に感動して、上ばかり見て追いかけて、野壺に落ちたこともあった。山の崖で木の葉や魚の化石を見付け、鯨か恐竜の化石を発見することを夢見、あちこちの山を掘り廻ったこともある。小川でフナやドジョウを捕まえ、蟻地獄に蟻を落として観察したり、蛙の尻に麦藁を刺し、空気を吹き込んだり、ねずみ取りにかかったネズミに、フマキラーの噴霧に火を付けて、火炎放射器の威力を試して見たこともある。キイロスズメバチとの一騎打ちをして、その頭部を狩り集めては首狩り族の気分を味わう等など、随分、残酷のことも数々とやり、生と死についても、少年の時代に充分に経験し理解していた。まだまだ、書き切れないほどで、現在の子供達に比して、はるかに、はるかに自然豊であった。こうした生活を通しての生物や自然との触れ合いが、後の環境や生態系の、医師としてのものの考え方に大きな影響があったと思う。
キット、この様な少年時代を過ごさねば医師となっても、今の職場には居なかったであろうと思う。
<小さな小さな学校>
人口千名前後の小さな村の各学年一クラスしかない小さな小さな小学校。我がクラスは疎開の児童が抜けた後は、男子18名、女子27名となった。終戦直後は、教科書の大部分が墨で真っ黒に塗られ、殆ど読むところはなく。新しい教科書も小さな版あり、大きな版ありのバラバラで、内容もあまりなく、手にしたらすぐに読み切ってしまえる様なものだったと記憶する。更に、新教育法?とかで、皆で一緒に成長しましょうと、それぞれのグループで教え、教え合う体制であった。机は教壇に向かわずに各グループごとに、コの字やロの字や菱形に並び、字の読めな友達と自作のかるた遊びをしたことや水素の実験でビーカーが爆発したこと以外、小学校で何を勉強したのかあまり覚えてもいない。食糧難の時代で、弁当が食べられる事件が頻発して、角切りのサツマイモに、少し飯粒の付いた自分の弁当に比しても、野草のスイコンを茹でたものしか持って来られない友達の弁当に、もっと、もっと貧しい人達がいることを悟るそんな厳しい時代でもあった。
【中学校の頃】
中学校も同じ顔ぶれで、野球をするのにも、一人欠席すれば野手が不足し、多数決を取れば絶対的に女子有利のままの一クラス。校長先生は小・中学校兼務で、受け持ち担任以外は職業・家庭の先生に、図画工作は小学校と兼務、そして、後で考えて見ると英語の先生が居なかった。小学校付属の様な中学校であった。職業家庭の授業も少しはあったが、専ら、小中学校のトイレの汲み出し作業と肥だめ担ぎで、堂々と二時間連続、週二日授業であったが、特別に不思議とも思わなかった。戦後5年は経ったと言っても、田舎の学校はこんなものであった。教科書は次第に整っては来たようだが、兎に角、みんなで一緒に勉強しましょうの継続で、毎年、およそ教科書の三分の一は終わらなかった。まだまだ、どうやって食べるか?が一番の問題で、教育ママとかの現代の風潮など考えられもしない時代であった、と言うか、全くの田舎であった。私はもうその当時から医者になる積もりでいたし、父母もそのことを知ってはいたようだが、競争のない田舎のこと、机に向かって勉強なんて考えもしなかった。机そのものがなかった。父は単身赴任の新潟住まいだったから、農作業の主力は母と私。学校帰りには畑か田に寄って、母の仕事を手伝っては帰る毎日であった。幸いに理科数学には興味があって、何か自然に解っていたような気がする。数学はたいして内容のない教科書だったから、小学5、6年生頃から先輩の教科書を借りて、一年先程度は理解していたように思う。机に座って勉強する時間もないし、習慣もなかったから、麦踏みをしながら、借りた教科書をパラパラと読んだ。中学の本も薄い教科書で、もう忘れてしまったが、すぐに解ったような気がする。一つだけ、一次方程式が何であの直線になるのか?始めは理解できなくて、そんなことを考えつつ、温泉の風呂に浸かって、流し場のタイルの升目を見ていたら、パッと解ったとか、アルキメデスの定理も教科書の記載が風呂に入っていて、解った様な気がする(彼の発見も風呂だったそうだが)。この理数の脳味噌を両親に貰ったことは、いくら感謝しても、し過ぎることはないように思う。理数のことは人に教えてもらった記憶がない。この理数のハンデがもしも無かったら、田舎からのポット出では、キット医者にはなっていなかったのではないかと思う。
【高校生の頃】
<兎に角、英語には参った>
1953年(s28)。高校に入学して驚いた。英語の教科書を貰ったが、授業では教科書をやらぬ。何か薄い副読本のようなものを別に買わされて、授業が始まった。我々のクラスの約1/3は同じ英語のクラスだったが、後の2/3の仲間は普通の教科書をやっているらしい。物理、解析の授業になるとクラスで私と二~三人だけがまた別のクラスの連中との授業になる。後で解ったことだが、高校に合格して入学前に英語のテストがあった。私はそのテストで本当に愕然とした。主語、動詞と言う言葉を全く知らなかった。文型がどうのなんて言う問題は当然のこと、殆どの問題がチンプンカンプンである。仕方がないから鉛筆を転がして○を付けてきた。当時、長野県では高校入試に英語の試験がなかった。英語は選択科目であったので、中学校には英語の先生がいなかった。中学で英語の授業がはじめの何時間かはあったように記憶するが、後は職業家庭との選択科目とかで、男子は全員便所の汲み出しと肥だめ担ぎの作業とをやっていたのだから、英語の主語、動詞を知らなくても無理はない。高校は長野県下の三本指に入る進学校のクラス分けで、英語で400名中100名をAAの二クラス、A200名とB100名の混合の六クラスに分け、AAには特別の教育、Bにもまた特別の教育が始まったという次第であった。一月ぐらいで気が付いて、明けても暮れても、殆どが英語の勉強ばかり、それも分厚い文法書を懸命に読み、単語、例文を暗記し、半年後の英語のクラス分けで何とかAAクラスに編入された。しかし、その後は、文法が邪魔で、邪魔で受験英語はなんとか誤魔化したが、ヒアリングとスピーチはからきし駄目で、どうやっても、聞き取れない。一生の英語嫌いになってしまった。それでも多少は幸いなことには、理数系には全く予習復習をしないでも、出たとこ勝負でも誤魔化せたから、アップアップでもなんとか大学に滑り込むことが出来た。しかし、中学でもう少しは英語を囓って、高校時代にもう少し余裕があったら、もっと高校時代にやっておくべきことがあったのではと思う。だが、私の高校時代はもう中学の遅れを、埋めるので精一杯で、昔の旧制中学五年制の寮歌にある多感な少年の晩期を味わう余裕は殆ど無かったと言える。もう一つ、齢85近くの最近になって気が付いた。真面なノートがとれない。結局、授業を受けても、必要なキーワードだけメモって、キチッとノートを取ったことがない。
今頃になって、不思議に思う。どうやって、それぞれの試験を通過してきたのか不思議に思う。
【大学の選択】
医師になること、子供の頃の“駄目な、頼りにならないお医者様”の代わりに、自分がなってやろうと言う純粋な動機ばかりでなく、医師という職業が“人に頭を下げなくてもいい職業”(が加わった)で、理数系の自分に適し、学力は何とかクリア出来ている、との見込みは自分なりにたった。
医学部がそれなりの難関と言っても、学内での成績順位の発表を見れば、医師を志すことは、射程距離内にある。不在地主で殆どの土地は没収され、貯蓄した財産も敗戦で零。頼みの父は国鉄の官吏でもう定年。関連の小さな会社に勤務というのに、これから医学部を目指し、順調に行っても、六年間の学生生活である。でも、子供だったなあーと思う。それに何といっても、大学の学費が受かれば、国立なら安く、本当に有難いことであった。親は金のことは何も言わなかった。後で、入学後、田畑、宅地が何回か抵当権を設定されていたことを知ったが、当時は周りが皆、貧乏だった。高校三年の夏、医者になるなら、金沢か千葉の可能性は充分と見た。担任の柔道家生島先生もそれで認めて下さっていた。そこで千葉大学の医学部を受けることにした。しかし、そのまま進んでいたら、やはり、キット現在ここにはいなかったであろう。現在とは異なった考えの医師となっていたのではないかと思う。受験勉強がそれでも順調に進んでいた十二月に、父兄の会合があって、母は校長に説得されたと言って、急に強力に東大を受けろと主張し始めた。冗談じゃない。受験勉強をなんにも知らないで簡単に言うな。試験科目が社会科目で一科、国語で漢文が余計に増える。漢文はまあまあとしても、社会で世界史に加え日本史も受けなくてはならなくなるのに、何言ってるんだ。生島先生も、当時は東大の医学部だけが、日本で戦後の医学教育制度に採用された米国様のシステムを最後まで残していて、教養学部を終了後に、全国公募で入学試験を課していることを心配されていた。先生が受け持ちであった医師の子息が東大に入学はしたが、医学部の試験に合格できずに農学部関係に行かざるを得なかったと言う苦い経験をお持ちで、医師になるなら東大は止した方がいいと説得して下さった。だが、どうしたのか?母は主張を曲げず、自分も子供であったなあーと思うが、やむなく、正月から一ヶ月で日本史のまとめをして、漢文はどうにかなるさと、理科二類を受験することにした。まあ、高校三年生でも、自己が確立していなかったと言えば、まったくその通りで、これもまた、大きな分岐点であったと思う。
【教養学部 理科二類】
1956年(s31)。勢いとは変なもので、もともと第一志望でもなかったところに、うっかり合格してしまったものだから、有頂天になるはやむなしのところに、大学生は大人だと煽てられ、未成年でも酒は飲めるし、受験勉強からも解放された。それに高校生とは違った自由が何とも心地よく、一年は駒場の寮生活を満喫した。尤も、この教養学部というもの、細切れの二年間で、多くの授業は全く中途半端であった。教授が自分の好きなことを勝手に喋って、終わりの講義が多く、これでは全国で教養学部が廃れるのもやむなしかと思われた。授業で記憶に残ったのはガマの解剖で、一般の臓器を対象とした解剖の後、二体目の神経系を中心にした解剖の時、前回では全く気が付かなかった神経系がこんなにも沢山に走っていることに気が付き、「人間の目玉とは見ようとしなければ見えないものだ!写真機とは違うのだ」と言うことを実感したことと、微量計測の手法を経験したこと、それに第二外国語を少し囓ったこと程度である。授業以外では、自分中心の狭い世界から社会に向かって広くものを見、考え始めたことかと思う。後になって、理科二類という理学部、農学部、医学部等などを目指す学生達が一時期ではあるが共に学び、考え、議論し得たこと、寮生活でその他の学類の学生と共に生活出来たこと、特に狭い技術的思考に陥りがちな理科系の我々には本当に必要なことであった、とつくづく感じた。しかし、二年間は余りにも中途半端であった。第二学年になって、一年後に迫った医学部の入学試験が喉に刺さった骨のように気になり出した。当時、理科二類450名からの医学部志望者は学内浪人(教養終了退学者)を含めて、定員80名の三倍を越えていた。他の大学では、専門課程は総て医学進学課程からストレートに進学するようになり、東大のみにこの制度が残った為に、行き場がなくなった志望の学内浪人が年々増え、溜まり始めていた。一方、志望者が医学部に偏り、他の学部・学科への進学バランスも悪くなり、大きな問題となっていた。そこでXYZ組制度と言う入試改革が行われ、教養学部の成績で、余程入学試験の成績が悪くなければ優先的に選抜されるというX組40名、滑り止めに他学部の進学を認めるY組10名、優先権のない入試に失敗すれば退学と言うZ組の制度になって、医学部の受験を多少は抑制する制度となった。幸か不幸かX組に入り、後で考えればお恥ずかしい限りだけれど、田舎からのポット出で、己の実力も知らずに、ただ、日頃の学内試験の成績が、たまたまよかっただけなのに、医学部入試を甘く見て、増長して試験に臨むこととなった。
【教養学部終了、退学】
<もし、この一年がなかったら>
悪夢のような現実。X組でたった二名の落第。よほど試験の成績が悪かったのだ。余りの奢りで、入試に失敗して気が付いた、医学部の入学試験とは、どんな試験問題がこれまで出題されたのかさえも調査していなかった。傾向も調べず対策もとらず、自分で駄目だと、批判さえもしていた教養学部の授業をやっておけば、なんてお笑いである。高校で担任であった生島先生が心配された通りになり、医学部入試に合格しなければ、医師への道は閉ざされた。折角、入学した大学を退学、放校になって、その現実の厳しさに気が付いた。これまでの試験問題集を買い揃えて、『若きウェルテルの悩み』の原書を持って、信州別所温泉の自宅に帰った。この一年は私にとって、とても、とても大きな一年であった。今考えて見ても、もし試験に失敗していなければ、キット、医師として全く異なった医師になっていたに違いないと思う。第一に、挫折して、先ず、敗者の痛みを知ることが出来た。如何に、己に碌な力もないのに驕り高ぶっていたか、挫折をして見て、よ~く判った。このままX組の特権で医学部の入試もストレートで合格していたら、どんな鼻持ちならない医師になっていたか!!自分でよ~く判る。第二に、その後に経験する『人』との出会いも、当然全く異なるものになっていただろう。第三に、医学部の37年卒のクラスは38年卒のクラスとでは人間関係が異なり、医師としての私に、全く異なった影響を及ぼしたと思う。第四に、最も大きなことであるが、大学紛争への対応が、この一年の違いで全く異なっていたであろうことだ。あのまま合格していたら、キットどこかの大学教授にでもなって全く異なる人生を歩んでいたに違いない。
この一年に、カケスという野鳥の放し飼いも経験し、野鳥との付き合いを通して、新たな自然に対する視野を開かれもした。『ソロモンの指輪』のコンラート・ローレンツの様に、動物の素晴らしい記憶力や豊かな感情などの諸能力に気づき、新しい動物行動学にも大きな興味を持たされた。そして何よりの収穫は「新しい大きなジャンプのために、身をかがめること」を学んだことであった。
*2022年の現在、1958年のこの一年間、受験勉強時を思うと、夜間の裏山で、山奥に深く響くアオバズクの声、未明の冷気を切り裂くようなホトトギスの声、早朝のスズメ騒がしい囀り、庭木を訪れるヤマガラやカラ類の密やかな鳴き声、そして、散歩時に、温泉街も山をも越えて、ぎゃー、ぎゃーと鳴きながら現れるカケスのだみ声がとても懐かしく思いだされる。
【医学生の頃】
昭和34年(1959年)、医学部専門課程に入学した。世情は敗戦の影響がまだ残っていたが、高度経済成長時代の始まりの頃で、寮の廊下が、ある日ボーッと霞んでいた。スモッグであった。
1928年発見のペニシリンも日本では1947年市販され、サルファ剤に加え、抗生物質で細菌感染の対応も可能となった。またDNAの二重らせん構造が判ったのが1953年である。行政では1958年(S33)国民健康保険法が制定され、61年改定で、国民皆保険となった。現代医療に必須の麻酔は、1957年東大で初代教授が専任されて、気管内挿管による全身ガス麻酔が行われ始めた。それまでは局所麻酔のみで開胸術さえも行い、極短時間の名人芸を求められた手術等の医療処置が、全身麻酔で、長時間にわたり呼吸、循環、排泄や輸液による体液バランス等などの全身状態を人間の手でコントロールして、日本でも2~3の大学で人工心肺使用による開心術が行われ始め、現代医療の夜明けの時であり、気付いてないが技術爆発前夜の時でもあった。
国民病であった結核もストレプトマイシンの発見で化学療法が可能となり、癌が医学の新たな関心の的の時でもあった。昔からへそ曲がりだったのかも知れないが、医学部の試験に落ちて色々考えさせられた一年の結果であろう、学生のサークル活動に脚光を浴びていた癌の会でなく、斜陽、斜陽と言われていた結核研究会を選んだ。
<隈部英雄先生との出会い>
その会での活動が私の医師としての生き方を決定した、と言って良い。人生で人との出会いは大変大きい。学生時代にしばしば出入りした清瀬の結核研究所所長であった隈部英雄先生との出会いは正にそれであった。医学部専門課程の二年生になって、結核研究会のハウプト(チーフ)になった。当時、多くの医師達は胸部X線写真をキチッとは読めなかったので、一年間をかけて学内で公開のX線胸部写真読影連続勉強会を計画した。一年間の会場も総て予約し、学内外のお願いすべき講師も揃った。予ねてから、第一回の講師に是非にとお願いしていた隈部先生に前日お電話した。『シャオカステン何枚用意しましょうか?』と伺い、『馬鹿野郎』と一喝され電話をガチャンと切られてしまった。一体何をお叱りなのか??翌日。『君達ねー。昨日、ハウプトとか言う馬鹿から電話があった。シャオカステン何枚用意するかと言う。だがネー。君達。X線写真は影絵だよ。5歳の子にでも、障子の向こうに犬や汽車のオモチャを翳せば、わんわんちゃん、汽車ぽっぽだと言う。何でだ??それは子供がオモチャの実態を知っているからだ!!影を影として勉強する。そんなものは本当の勉強でない!!その実態を知れば、影は自ずと読める!!自然科学の勉強というものは、、、』。その後は、ネルーがどうした。ウィルヒョウがどうした、マルクスがどうした、とか話をされて、パーッと帰ってしまわれた。それで、一年間にわたり、折角立てた計画を全部ご破算にして、その夏休み結核研究所に出掛けて、泊まり込みで肺のトレースをやった。肺の標本を薄く切って、積み重ね、気管支や血管を追跡するのだ。確かに気管・気管支、血管系の関係が頭に入って、本当に影絵を読む基礎の勉強になった。その後、『本というものは書いた時には、もう間違いだらけなんだ。本は読まねばならんが、自分の目玉を信じろ。』『君達ね。医者が現在の様な抗生物質の使い方をしたら今に何にも薬が効かない菌が出現し、抗生物質発見以前の時代に戻るぞ。シッカリ勉強して薬を使い給え!!』 『この大学には、小利口な奴はいっぱい居る。だが今の日本で本当に必要なのは、大馬鹿野郎なんだ!!』。清瀬の結核研究所所長室でビールを飲みながら目を輝かした学生時代。そして、何日も地域に泊まり込んでの結核検診、有病者の追跡調査などを通して、当時の医学界・医療界が抱えているどうしようもない諸問題に気付き始めた。医療機器は揃っているのに医師不足で全く機能していない地域の病院。医師が過剰でこれまた、卒後教育も満足に出来ない大学病院。医学・医療界の封建制と腐敗。名ばかりで予算の裏付けも実質も無いインターン制度や臨床系大学院制度等などの卒後医師教育制度。最先端の医学・医療を追求していると言え、誰のための学問か?誰のための医療か?首を傾げざるを得ない大学の教授や医師達。論文の数で選考されて医療のトップともなる教授選考。内科では何とか誤魔化せても、外科ではしばしば悲劇が生ずる。いい加減な業績の評価とその温床の医局制度。学問に対する甘い態度の、なあなあの医学・医療界。正に問題だらけであった。
*一方、レーチェル・カーソンが『沈黙の春』を出版し、DDTを始めとする農薬、化学物質の危険性を警告したのが1962年であり、プラサドがヒトの亜鉛欠乏症の存在を示唆した論文を発表したのが1961年で、『亜鉛欠乏症は味覚障害』と刷り込まれたのが、この医学生時代であった。
【【大学闘争】】
【インターンの頃(1963.04~ s38)】
1963年(s38)、医学部を卒業。インターン時代に研修を受けた気管内挿管による全身麻酔の技術は当時得られた最も新しい医療技術の一つであった。某日、都内の某病院での当直で、救急車で搬送された脳出血の患者が、みるみる瞳孔散大し、荒い呼吸から呼吸停止となり、咄嗟に挿管、手元にあった麻酔器で人工呼吸を開始したのだが、当然呼吸は戻らず。人工呼吸器もない当時、中止する訳にも行かず一晩中バックを押し続け、困惑したことがあった。翌日に、大学で先輩医師から「適応を考えろ!!」と叱られた記憶が鮮明にある。当然当時、ヒトは食べなくなったら、尿が出なくなったら、呼吸が止まったら、心臓が止まったら、余ほど特殊な例外を除いて、それはヒトの死であり、何の問題もなかった。
<医療を囲む無茶苦茶な習慣・制度>
戦後、米国のシステムだけを取り入れた学生でもない、医者でもない、日本のインターン制度。その教育システムも、財政的な裏付けも、資格も何も無い制度であった。大学病院でのインターン時には、適切な指導医も時にはいたが、研究至上主義の大学では、研究室で研究でもしているのか、多くは殆ど病室にはいない担当医師が多かった。心電図のP波の専門家とか?、何々の専門家とは言うけれど、輸液はすれども“水と電解質”のことも、抗生物質のことも、余りご存じない臨床医達の集まり。全く、不思議な世界であった。勿論、患者をキチッと診療する医師もいたが、一方で、“マテェリアル(材料)”と患者さんを研究材料としか見ていない呼び方をする医師も多く、その様な医師がむしろ優秀な医師と評価される大学内の傾向には正直驚いた。1963年当時、市中は極端な医師不足。多くのインターン生は生活費稼ぎに都内の病院でアルバイト。ハッキリ言えば医師法違反であるが、市中の病院の夜間の当直はおろか、日常の診療でも引く手数多であり、インターン生のアルバイトは公然の秘密であった。尤も、当時は、医学・医療の進歩発展の始まりの時期でもあったから、インターン生の知識は実質的には一般の医師に比して高かった。
麻酔科三か月のインターン教育を受けたインターン生は挿管を伴う気管内麻酔は勿論、当時のエーテルによるオープン・ドロップの小児麻酔の実質的な経験は一般市中の医師にはなく、紹介された小児の難治な陥頓ヘルニアの還納時に、当然、施術しない訳には行かぬこともあった。
一方、当時の市中病院では、薬の使い方は、酷いもので、注射、注射の全盛の時代でもあった。イヤ、大学病院でも似た様なもので、点滴には、種々雑多な薬剤が混入され、その禁忌は混濁・変色という何世紀前の化学の思考が当たり前に通用していた。(尤も、これは現在でも残念ながら、まだ、かなりの病院で相変わらずの様である。)、兎に角当時は、何で使われるのか?手術には止血剤一式とか、各種ビタミン剤に抗生物質も、とつくづく医学は科学でないと感じさせられた。
*人体でも、点滴バックと同じことが、2020年代の現在も行われている。多剤服用のことである!薬剤は活性の化学物質であり、周辺に影響を及ぼすから何らかの変化が生じ、病気が治癒したり、コントロールできたりする。その活性物質を何種類も混ぜたら、化学物質同士で反応を生ずるなど当然のこと、本来医師の常識の筈だが、現実は!?
医学界・医療界の諸矛盾に関しては関心は高まってきてはいたが、昭和39年の大学医局への入局時、私はクラスの入局委員長をしていたので、少なくとも、実態のない臨床系大学院の改革を目指して、ボイコットをと提案したが、多数の賛成を得るにはいたらなかった。大学院を出ると、一生一号俸は違うのであるからと、本当に、真剣に言う同級生の近視眼的主張に対して、説得をする気力もなかったし、私自身もまた、そんなに政治的活動家でもなかった。
【【大学、医局員時代(1964.06~)】】
【現代医療の夜明け、外科系医療の日の出の時】
1964年からの大学病院・木本外科での新人医師研修の数年間は、正に日本の現代医療、特に外科系医療の日の出の時であった。心臓も呼吸も止め、人工心肺を駆使しての開心術が始まったのはこの頃で、まだ心筋保護の知識・技術が不十分で、心停止時間は極限られ、術者は超名人芸の手技とスピードが求められた。だから術中死や心筋の障害等での術後死はしばしばで、心肺・血管系の大手術の術後管理に導入されたまだ不完全な人工呼吸器では微妙な呼吸の補助が出来ずに、一晩中、バックを押し続けた呼吸補助の術後管理もまたしばしばであった。勿論見事に手術が成功した例も数多いが、当時の術者の技量もあって、大動脈弁や僧帽弁の人工弁置換術は殆ど不成功であったこと事実で、数々の死を経験した。
そこで、演者は心肺蘇生術は勿論のこと、術後管理の呼吸、循環や尿排泄の腎の生理や機能の維持、体液コントロールの輸液の理論や技術の習得、更には感染対策や栄養・食事のこと等々と新しい知識と技術の習得は膨大なものであり、その多忙さから1年365日のうち、300日以上は病院に泊まり込んでいた様で、よくぞ過労死しなかったものと思う。心筋保護の技術の進歩に加え、医療機器等などの進歩に、数々の経験や知見の積み重ねもあり、心・血管外科の現在があることもまた事実である。また、同時に、開心術の重大な合併症の刺激伝導系損傷対策としての研究も始まり、電線にて心臓と体内外とを繋ぐ心筋刺激装置が現在の埋め込み式のペース・メーカーにまで進歩するとは、当時は、想像すら出来ないことであった。
(移植医療もスタート)
さらに、慢性の腎不全患者の治療を目指して、日本で初めての腎移植も行われた。移植された腎の動脈と静脈が吻合され、血行遮断が解除され、血液の循環が始まり、移植腎にポッと血の気が満ち、尿が尿管からシューッと噴出した時、正直、感激した。医学・医療はこんなことも出来るのだと。だが、この腎移植は、当然、成功しなかった。患者の状態管理等も含めて、拒絶反応への知識やその予防の技術がまだまだであった。数年後の和田心臓移植も手術手技は開心術よりもむしろ単純で、移植周辺の知識が不足であった。さて、この移植に先だって、その準備として、旧式の大型電気洗濯機の様な人工腎臓が導入され、慢性腎不全患者の血液透析を、筆者含め新人医師がチームを組み、交代で一人がぴったり張り付いて、時々刻々と変化する血圧・容態に緊張して透析に対応した。時代の最先端を行く高揚した気分でもあった。現在のコンピュータ制御で、モニターのついた多数の透析機器の透析室で数十人の透析が、たった一人の医師と数人の技師や看護師の管理のもとに、静かに、安定して行われている様に、医学・医療の爆発的進歩を感じざるを得ない。
こうして日本の現代医療は、大学病院において、夜明けを迎えた。
<医局員120名余の木本外科>
インターン時代に垣間見てはいたが医局員となって、東大病院木本外科は80の病床に120名余の医局員がいることを知った。大外科に所属している誇りとこの医師達いったい何をしているのか?との素朴の疑問が正直なところであった。当時、大学の塀を一歩出ると極端な医師不足で、普通の市立病院では、医長に6ヶ月か1年任期の派遣医局員一名計二名の外科医であったから、全く不思議なことであった。新入の我々は10数床のベッドを受け持ち、無給であるのは、当時は、仕方ないとして、教授から講座助手の役職者以外は、10数人の有給病院助手を除くと大部分の医師は定職を持たず、都下周辺の病院でアルバイトをしつつ、手術の見学をしたり、動物実験をしたりして、ただ、教職のポストが降ってくるのを待っている不思議な世界であった。それにしても、新入医局員の仕事は手術に、術前術後の管理は勿論のこと、ありとあらゆる雑用をこなし、私などは一年365日の内の300日は病棟に泊まり込みで過ごした。他の夜には、生活費稼ぎの当直のアルバイトで、自分のアパートに帰るのは精も根も尽き、疲れ果てて、月に一~二度昏々と眠りに帰っただけと言う生活であった。近年、研修医の過労死、自殺が時々は話題となったが、自分で選んだ道とは言え、全く常軌を逸した生活であったと言える。でも、本当に若かったのだと思うが、医師の研修システムとしては大変過酷な状態が放置されたままだった。しかしまた、当時は気管内挿管の全身麻酔が一般の病院にも、やっと普及しはじめ、人工心肺による体外循環での開心術がスタートし、洗濯機の改良型の様な人工腎臓が大学病院では試用が始まり、腎移植の第一例も行われた時期であった。医学的知識においても、輸液理論、酸塩基平衡や呼吸機能の生理や臨床、心電図の理論が一般に知られはじめ、免疫、DNAの知識も、臨床に応用されはじめた時期でもあり、又、輸液製剤、抗生物質や抗菌薬が次々に開発さ始めた頃でもあった。こうして、大きく纏めると、1)輸液法の進歩、2)麻酔法の進歩、3)薬剤の開発・発展、4)人工臓器の発展、5)診断・治療の技術(特に、内視鏡やME機器等の周辺科学や技術の進歩に伴う医療機器や技術)の進歩・発展、6)医学知識の進歩が急激に始まり、その後の医療技術爆発とも言ってよい医学・医療の爆発的進歩の丁度“夜明けの時期”であった。そんな時期には、120名の大医局は耳学問や知識・技術の習得、研修には大変に有利な場であったことは事実である。特に、外科は手術という技術の比重が高いことは当然であるが、多くの外科医の手術を見学できること、それが上手であれ、下手であれ大変勉強になり、有り難いことであった。例えば、主任教授の木本先生は、炎症で一塊となった腸の癒着剥離の技術は抜群であった。メイヨー(ハサミ)一本で殆ど出血させずに見事に全腸管を剥離された。これは適切な“層”にハサミが入るからで、それには、左手で適切な“緊張”を腸管に加えつつ、本来の組織と癒着組織とを見分けて、絶対に本来の組織にハサミが触れないように癒着した組織だけを切離、剥離して行くのだ。これには“適正な層を見分ける確かな目と適切な緊張を与える左手”とが必要で、つまり、“脳(頭)”で手術をしておられた。外科医として当然と言えば当然のことなのだが、しかし、見掛けは同じ動作をしていても、ジクジクと出血させては(縛っては切り、縛っては切りと)結紮、切離して剥離する外科医が結構大勢いた。何が違うのか?と、じっくりと手術を見ていると、これは全く“似て非なることをやっている”のだが、こうゆう外科医達は観察する目玉と神経が粗なので、どうして出血するのか気が付かない、癒着の原理が判っていない。手術は肉眼レベルでするのでなく、顕微鏡レベルでするのだ、と言うことが判っていない様に思えた。心臓外科のS講師は運針の基本が身に付いてはおられずに、針付き縫合糸(atraumaticな針)をtraumaticに使用するため、針穴から出血し、手術の組み立てにも問題があって、手術の成績は悪かった。尤も、日本で人工心肺下の開心術が始まったばかりで、現在の様には心筋保護も充分でなかったから手術時間も限られて、本当はお気の毒であったのかも知れないが、外科医のABCをキチッと教育されていないと言うか、自分で身につけてこられなかった結果だと思う。しかし、もっとお気の毒なのは患者さんであった。我々新人外科医の目で見ても、A助手の方が、臨床面でも、ものの考え方も、遙かに優秀と考えられたが、甘い業績評価と研究至上主義の論文数に、その上、年序列の医局制度による他流競争無き医局内人事から、残念ながら、臨床面の軽視は明らかであった。こうして、木本外科の医療の質は、玉石混淆で、全体として必ずしも、素晴らしいとは言えない状況であった。(尤も、当時どこの大学も同じ状況と言えたし、現在でも、最近、某大学で同じ様なことが起こったようでもあり、未だに、多くの大学が変わっていないのかも知れない。いや変わっていないであろう。大学や学会改革を目指したあの大学闘争後、50年も経つのに、何とも情けないことと思う。)
<ヒトも犬も同じ動物>
しかし又、一方では、勿論、素晴らしい人も大勢揃っていたから、良い例と悪い例を1年という短い期間だが、十二分に経験出来たことは、大変有り難いことと言うべきであった。こんな訳で、術後に亡くなられる患者さんも多く、殆ど毎日の様に、泊まり込んでの術後管理が続いた。正直言って、心肺蘇生術などのトレーニングには事欠かない状態でもあった。医局員の1年目はこうして精神的にも、身体的にも大変な一年であったが、今考えると、若かったので、何とか耐え抜けた。勿論興味もあって、日常の臨床の合間に、時々、先輩の犬の実験を手伝った。その時、経験して気が付いた第一のことは抗生物質についてであった。日頃の臨床では大きな手術のことでもあり、感染予防に抗生物質は先輩から教えられた通りに、少なくとも約一週間は使用していた。しかし、犬の実験では大学の研究機関として動物実験のシステムが整ってはいなかったから、汚い実験室での手術で、術後にはどこからか、密かに手に入れた抗生物質を一回注射すればいい方で、一般には殆ど使用はしなかった。手術創とて、ガーゼなど実験日には当てても、後は放って置かれた。それでも犬に感染が生じたことは殆ど無かった。犬とヒト、同じ動物で何が違うのだろうか?免疫のどこが違うのだろうか?教科書には「感染なきところに、抗生物質の使用有害無益」と書いてある。ヒトの手術は手洗いをして、清潔な手術室で、キチッと消毒をして、確かに大手術で時間はかかっているが,どこから細菌の感染があるのだろうか?疑問は次第に大きくなった。隈部先生は『現在のような薬の使用をしていれば、今にどんな薬も効かない菌が出現してくる』と言われた。本当に病院で使用している抗生物質は必要なのであろうか?と考えさせられる日々でもあった。
【二年目の外勤の時(1965.06~ s40.6)】
<抗生物質の適応の確認>
医局員の一年目、得るものも大きかったが、奴隷のような無茶苦茶な労働の一年が終わった。二年目は、先輩が医長として赴任している地方の病院に医師として手伝いに派遣され、大学病院の一医師でなくその病院の一人前の医師として、先輩の医長は居ても、患者さんに対して全責任を負って、実質的に主治医として勤める時が来た。大学の想像を絶する過激な勤務でなく、それなりには余裕のある生活。それも、始めて可成りの決まった月給も入り、解放された一年。色々な思い出がある。主治医として、本当に全責任を負った主治医として、患者さんを受け持つ。大学で慣例的に、先輩から伝えられた薬の使い方が、本当に正しいのか?自分の責任で試せる時期が来た。抗生物質の使い方、輸液の仕方、止血剤の使い方、大学で伝えられた使用法で、教科書と合わせても理論的に考えても、納得の出来なかったことを自分の責任で間違いなく試してみる時がやってきた。ここでは抗生物質のことだけ書こう。どの教科書にも『感染なきところに抗生物質の使用有害無益』と書いてある。だが、手術をして感染があるかないか、それはすぐ目に見えない。だが、大きな手術はいざ知らず、綺麗に手洗いをして、キチッと消毒をして、腸管も開けない様なヘルニアの手術のどこから細菌感染が生ずるのだろうか?大学では手術をすれば、止血剤一式に抗生物質の使用は当然のこととして教えられてきたが、、、、、。結局、抗生物質は犬の実験が正しく、特に、ヘルニアのような非汚染手術には必要ないことが、確認できた。更に、腹部の手術でも、少なくとも胆石の手術など綺麗に出来た手術には不要であることが、緻密で注意深い術後観察の末判った。先輩の医長が処方を忘れたのでないかと心配されて、時々、抗生物質を追加処方されたことは知っていたが、本当は不要なことが判った。教科書の通りであり、如何に自分の手術が綺麗にキチッと出来たかによる。汚染手術や長時間の大きな開創手術の場合は無理をしないとし、少なくとも非汚染手術を綺麗にやれば抗生物質は不要であることが判った。
出来るだけ適切な抗生物質の使用をの姿勢は、全国的にMRSA感染が問題となった時に、他病院に比較して、浅間病院のバンコマイシン使用量の少なさでも証明されたと思っている。
ただ、後に国保の審査員として、長野県の医療に多少は影響を及ぼしたとは思うが、近年まで、一般の感冒に対する抗菌薬の使用傾向の存在を否定はできない。
*1965年。初夏の頃、浅間病院外科に3ケ月勤務した。まだ、砂ぼこり舞う田圃の中に、ポツンと立つ木造モルタルの牧歌的な病院で、夜になると周辺の田面のホタルの乱舞と昼の細い畦道を案内する様なキチキチバッタの飛翔とその音を忘れることが出来ない。勿論、当時の田植え後の田の面でのカエルの大合唱は今でも耳に残る。最近は、殆んど経験することは出来ない。
【【無給助手、有給助手(3年間)と大学紛争】】
【大学紛争】 大学紛争は国の無策のまま放置されてきたインターン問題を中心にs40年卒の学年あたりから、東大医学部で本格的に問題となった。大学院問題やインターン制度廃止の要望から、s41卒が青年医師連合を全国的に組織、厚生省指定インターン病院ボイコット、大学病院立てこもり、自主カリキュラム闘争が提起された。s42年にはインターン制に変わって、医師法の一部を改正して、姑息的な登録医制の検討などから、医学部内の対立は深まり、学生の授業放棄へとエスカレート。s43年、研修協約問題、ストライキ、卒業試験ボイコット、その混乱のなかでの誤認処分問題より、この紛争は全学に広がり、問題は大学の在り方、研究の在り方等々の根元的なものを問うものになっていった。
【無給医局員として(1966.06~)】
s38年卒の我々のグループは一年の外勤後、大学に戻り、無給医局員として各研究グループに配属され、それぞれ都内外の病院でアルバイトをしながら、研究テーマを決めて研究生活に、又、病院の外来や検査等の仕事に従事した。矛盾だらけの医学医療界の問題は正に当事者として感じていることではあったが、正直言って同情はすれども、まだ、後輩達は良く頑張っている、俺たちは事なかれでやっていると言う感覚であった。私は学生時代のことも含め、結核が斜陽と考えられて肺疾患を目指す医師が少ないことから、肺を中心とした胸部外科を専攻する積もりで、肺のグループに所属した。臨床的には先輩のやっていた気管支動脈の造影より、肺疾患の診断、病態を追求すること、動物実験では気管分岐部の切除再建で、肺手術の可能性の拡大を目指すことに手を付けた。しかし、実験設備はお世辞にも良いとは言えず。実験室の不潔さ設備の無さ、医局雇用の実験助手はいたが、動物の飼育管理は全く考えられてもいないと思われる状況であった。急性実験はまだしも、気管分岐部切除再建の様な術後長期生存させ、経過を追う実験は絶望的とさえ言えた。手術が成功し、長期生存させた犬が、ある日突然居なくなり、探したら他の実験に使用されていて、気付いたときは既に処分されてしまっていたこともあった。経過の追跡でもX線でチェックしようとすれば、病院の知っているレンゲン技師に頼んで、患者の居なくなった午後に麻酔をかけた犬をソーッと担架で運んで撮影して貰うなどと、兎に角、動物実験のシステムは何も整っていなかった。これでは、正に、犬死で、実験動物虐待と言うよりはなく、これが本当に、大学の実験かと疑問に感じた。動物の慢性実験は本当に憂鬱なことであった。
【無給医局員と大学紛争】
木本先生は大変綺麗な手際の良い手術をされたが、癌の手術には余り興味を持たれていないようで、リンパ腺の郭清等殆どされなかった。又、当時の食道癌の手術はH助教授がされていたが、とても適切な手術とは言えず、成績も悪かった。失礼ながら手術への対応が粗雑であると思われた。これらのことは、外勤に出て大学の外を経験することで、更に良く判ってきたことであった。この無給の比較的自由な時期を利用し、当時、癌の手術を盛んにやっておられた癌研の梶谷環先生の癌手術、女子医大の中山恒明先生の食道癌手術等見学に出掛けた。梶谷先生の手術は患者が例え死んでも癌は全部切除すると言う、電気メスを多用はされたが、徹底した解剖学的な層の手術であり、中山先生の手術は出来るだけ合併症を減らして、一回でも良いから食べられる様にして亡くなっていただくと言う、動脈瘤針を多用されて、結紮切除する解剖学的層は関係ない、殺さない手術で、それぞれ自己の哲学に基づいた手術でいろんな意味で大変参考になった。私は結核研究所の塩沢正俊先生の肺手術、特に、区域切除の解剖学的層を大切にした手術等をしばしば見学するなど、その他にも当時これはと言われる人の手術を見学させて頂いた。しかし、『他大学医局出身者の教えを乞うてはいけない』と言う、当時としては当然の論理であった??医局長の発言に『とんでも無い』と声を上げ、『医局の指示に従えないものは医局を出ろ』の発言に対して、我々のs38年卒のグループが結束して反対の声を上げたところから、我々の大学紛争は始まった。木本外科に120名も医師がいることを先ず考えねばならない。大学にだらだらと居て、年序列で教職ポストを待っているようなことでなく、一定の教育を受けたら、先ず医師不足の現場に出るべきである。『先輩よ、まず大学を去れ、我々も教育を受けたらすぐ医局を出るから、そして、優秀な仕事をしたら大学に戻ってきたら良いではないか』とやった。総論はその通りで賛成だが、自分は嫌だ、『自分が出れば下の奴の順番が上がるだけだ。若い奴が何を言うか』。医局制度とはぬるま湯で、出なければどうにもならないこと判っているが、出るに出られない。多くの医師達が近視眼的で、封建的と言うより、お互いに自分のことだけしか考えないもたれ合いの情けない状態が医局制度を作っていた。一方大学紛争では、大学病院を出て外勤方針を打ち出した青年医師連合の後輩達の支援にも力を入れなければならない状況となっていた。
【大学病院有給助手として(1967.06 s42.6~)】
医局長命令の様な、自由な勉強も出来ない様な大学は改革しなければならない、と我々三八卒のクラスが結束しだした頃、丁度、有給のポストに就く順番が回ってきた。病院でベッドを持ち、主治医として患者さんの診療を始めることになった。大学の改革を唱えるのには、何事にも誰からも文句の付けられない様に、先ず診療の改革をと、論理性に疑問の抗生物質の使用や薬剤使用の改善、勤務時間内の診療への専心(当たり前のことだが)、大学病院内外の教室の壁や大学を越えた勉強会や検討会、研究グループごとに分断されていた検査技術などのクラス内での門戸開放等々や信じられないことだが病歴をキチッと書くことも(これも当たり前のことだが)着実に実行した。そして、取ってもどうと言うこともないが、取らないと気持ち悪い“足の裏の米粒“と言われ、それでも、これまでは殆どの医師が取得していた博士号ボイコットをすることにした。しかし、研究至上主義の当時の大学では、患者を受け持っていても、研究をしていないと、医局内では発言も軽視されるので、研究もしっかりとやる。更には、闘争脱落組と自主研修組の対立し合う研修医の教育もキチッとやった。少数の脱落組は正規の研修医として、だが、仲間からは村八分の処遇を受け、自主研修組は大学からすれば非正規の押し掛けの研修医であり、我々が自主的に抱えて教育をする、と言う人間関係のぎすぎすした悲劇の時代であった。でも、主義主張はあっても後輩達を平等に教育をする。そして、自分自身の勉強もと、そんな多忙な生活が始まった。
s43.3.正確には日時の記憶は不明だが、外科系研究棟の封鎖が行われた。見事な戦術であると思った。それまで、のほほんと過ごしていた多くの医局員に問題意識を目覚めさせた。封鎖に激怒した医局員もいたけれど少なく、大部分は拍子抜けするほど従順であった。真剣に問題と闘っている学生達にそれなりに引け目を感じていたのだろうと思う。我々のクラスが中心になって、占拠学生との話し合いを求めると、今井澄君がゴム草履を履いてパタパタと旧医局に一人で現れた。論理整然として、現状分析も正しい。この運動がうまく行くかどうかは全く判らないが、やろうとしていることは正しい。多いに協力してやろうじゃないか。その後、我々のクラスを核として、東大第二外科の医局長になった池田貞雄先生を中心として外科医師連合が組織され、東大だけではなく全国で連携して、医学界、医療界の改革運動をするもとになった。今井はなかなかの男で、隈部先生の言う正に『大馬鹿野郎』だが、その後、医師として外科医としての研修を私のもとで、浅間病院で受け、つぶれかかって再建途中であった茅野市の諏訪中央病院の院長となり、全国でも知られる病院に発展させ、長野の国保地域医療を共にすすめ、参議院議員になり、活躍するとは、当時は夢にも思わなかった。そんな人間の出会いでもあった。
【大学紛争は収拾されて】
研究至上主義の大学で、大学改革をすることが、正しいことを言っても、それなりの実践をしていなければ、重みを持って受け入れられない。つまり、臨床に、研究に、加えての闘争であった。診療は誰にも文句言わせないように、キッチとやった。時間外の夜は闘争会議。そして、東大の実験室は封鎖されているので、夜中に船木治雄先生(肺の研究グループで私の直接の指導者。第二外科の中で最も真面目に、最も熱心に実験を黙々とされていた一人で、紛争のさなかに、『臨床に厳しさのないところは、研究にも厳しさがない』と言われて、一番最初に、医局を出て国立八王子病院に赴任された。)と東京医科歯科大学の材料機材研究所の部屋をかりて、しばしば犬の心肺同時移植を夜明けまでやった。良く身体が持ったものだと思う。皆、若かった。本当に一生懸命生きた。しかし、秩父宮ラグビー場で変な手打ち式(1969.01)が行われて、うやむやの内に東大闘争は収拾されていった。結局、大学には殆ど何の変化も改革もなかったが、種だけは確実に蒔かれた。如何に正しいこととは言っても、誰だって人間関係がぎすぎすしたくはない。教授に刃向かうなんてせずに体制に従っていた方がどれほど楽か決まっている。s38年卒のクラスだから一人を除いて、皆がまとまった。皆で腕をがっちり組まなければ、こんな活動は出来なかったろう。がんじがらめの医局支配体制が全国を支配していた時だったから、うっかりすれば医師としては生きて行けなかったかも知れない。あの大学紛争はその後、何人かの自殺者が出た程の人生の懸かったことだった。だから、この仲間は本当に心から信用のおける仲間として固い絆に結ばれて現在まで続いている。東大闘争とはそうゆう闘争であった。そして、医局会議で“先ず医療の現場に出ろ“と言った我々が真っ先に千葉に、埼玉に、静岡に、長野へと散った。
<大学には幻滅し、信州に>
こうして、種だけは蒔かれた。大学病院に幻滅を感じ、大学を出て、ここだけでもあるべき医療を追求しようと出身地近くの長野県佐久の地に行くことにした。長野に来る前にもう一つの分岐点があった。学生時代から、斜陽と言われた結核研究会に所属し、胸部疾患への拘りがあった。結核研究所の塩澤正俊先生の手術をしばしば見学に行き、結研の外科に誘われてもいた。専門医志向の強い時代風潮を反映し、私も肺外科の専門医になる積もりでいた。大学を出ることを決め、結核研究所の外科に就職を申し出ると、しばらくしてから塩澤先生から困ったように雇えないとの話があった。そうか、隈部先生も亡くなられた今、旧い体質の結核予防会が旧体制を批判する大学紛争をやった男を雇えない、と言うのは当然と言えば、当然で、やむなしである。方向転換をした。当時の毎日ライフに頼まれた寄稿文の中に心境を書いている。日本の医療はまだ、キャデラックを走らせる時でない。今はブルトーザーが必要の時、私はブルトーザーとして地ならしをしよう、その内に、キャデラックを走らせる時が日本にも来よう。もしここで、結核研究所の外科に入っていたら、又、全く違った人生を歩んでいたことであろし、又、信州・長野県の医療もキッと異なった経過をたどっていたと思う。
【【佐久立国保浅間総合病院へ】】
【1970年8月、外科医長として着任】
当然のことだが、大学、学会改革など出来ず、でも新天地を求め故郷信州の佐久の地に着任。浅間病院は新たな病棟の建設計画はあったが、まだまだ、木造モルタルの小さな病院で、典型的ジッツ病院で、大学紛争の波をもろにかぶって、今にも医師が居なくなりそうな病院であった
大学の改革は出来なかった。種は蒔かれたが、どう発芽するのかは全く不明であった。大学の医学医療は多くの問題を含んではいるが、急速に進歩・発展し始めてもいた。一方、大学の塀を一歩外に出た地方の医療状態は絶対的な医師不足で、病院は全くの発育不全の状態にあった。ここだけでも、出来るだけ科学性に基づいた『グループの医療(病院の医療)』が出来るモデルを作ろうと、1970年8月(s45.8.)に、佐久市立国保浅間総合病院に、外科医長として赴任した。この病院は昭和34年4月(1959)に、地域住民の熱意のもとに、大学の外にも、大学病院並みの医療の場を作ろうとしていた沖中教授(当時)の肝いりで、東京には虎ノ門病院を、地方には浅間病院を、として作られた病院で、典型的な大学のジッツ病院であった。しかし、私の赴任した当時は、大学紛争の大波をもろに被って、今にも医師が居なくなってしまうのではないかと思われる、医師数10名、病床約100床のまだ小さな病院であった。次々と建て増しで、迷路のような小さな田舎の病院ではあったが、初代院長吉澤国雄先生の“山椒は小粒でもピリリと辛い”、“保健予防と診療の二本足の医療=国保の地域医療”を目指すとの方針のもとに、異様な熱気に包まれた病院でもあった。当然に、浅間病院は色々な問題を抱えていたが、大きな問題は二つであった。
<当時、病院勤務医の顔がなかった>
一つは絶対的な医師不足で、一つは赤字問題である。医師不足は、当時、殆どの医師の意識は大学か開業に向いていて、病院には医局の人事で派遣されて来るか、開業までの腰掛けか、と言う医師が多く、病院に腰を据えて『病院の医療・グループの医療作り』をしようと言う医師は殆ど居なかった。更に、悪いことに、大学紛争までは医局体制の中で、教授の鶴の一声で地域の病院に派遣されていた医師が、未完成の大学紛争で、中途半端に民主化?され、教授の権力も低下する中で、医療の現場に出る総論は賛成だが、自分が出る各論は反対と個人のエゴ丸出しで、大学に立て籠る傾向が出て来てもいた。浅間病院のような、大学の典型的なジッツ病院であったところはこの影響がもろに出て、先ず、医長として部下を抱えて、地域で病院医療をやろうと言う医師は皆無に等しかった。医長も1~2年任期で医局からの派遣が多く、医長以外は3ヶ月とか、酷い場合は1ヶ月交代の医局派遣の医師でやっと最低限の医師を確保する綱渡り状態であった。地方の病院では医師が少ないから仕事が出来なくて、仕事が過重で勉強にならなくて、それで又、医師が辞めると言う悪循環になり、本当に医師が居なくなるかと思われることもしばしばであった。先ず、なんとか外科だけでも、大学医局に頼らずに、腰を据えた医師を集めようと、集まった連中で共に勉強しながら、医学性に基づいた医療を実現しようと、外科の基本をキチッと教え、教えられながら、外科だけでなく他の科の医師も、病院外の医師達をも巻き込みながら活動していると不思議なもので、だんだんと医師が集まって来てくれる様になった。勿論、一生懸命に誘ったら、
卒業してすぐにやって来た者もいる。大学紛争をやった連中も集まって来た。彼の今井 澄医師もその一人だった。本来、病院はそれぞれの専門の医師が集まり、それが協力しあって、はじめてグループの医療、病院の医療が出来上がる。外科の医師を集めつつ、外科だけでは駄目なので、外科を核として、それぞれの科の医師をも集めた。吉澤先生は糖尿病を専門とされていたので、浅間病院には糖尿病の患者が多数集まっていた。『信州で糖尿病を一生懸命やっている病院に、信州の大学で糖尿病を研究しているこの科で、医師を送ってこないなんて、それで良いのですか?』と強談判を内分泌内科の山田教授にしたこともあった。『これからは病院、グループの医療の時代だ。一緒にやろう。』と、一本つりはしばしばであった。『我々の病院に医師を派遣しないと将来損をするでしょう。』とはじめてお会いした教授に言ったこともある。駄目で元々と外科医長の時から、大学の他科の医局やこれはと言う医師がいれば都内の病院や他県の病院にまで、医師を求めて歩いた。残念ながら、今はお亡くなりになった津山直一先生(当時、東大整形外科教授)がある時、浅間病院を訪ねて来られて、『オッ、倉澤。お前こんなところで、頑張っているのか!!じゃ、全面的に応援するぞ!』と整形外科作りを支えてくださった。大学紛争時代、教授会代表として、私とやり合った間柄ではあったが、立場は立場として深い理解と賛同をして下さっていた。
こうして、浅間病院作りでは多くの方々にお世話になった。余談になるが、私はお世話になった方々にはその時は勿論だが、むしろ、お世話にならなくなってからキチッとお訪ねしたり、毎年、年賀状を出したりを続けてきた。最も、長い人生、人間として尊敬できない人も二~三人は居る、こうゆう人達にはむしろ失礼になるから出さない。大学紛争で可成りご迷惑かけたであろう方々が結構大勢、支えて下さった。当時は、日本の医師には、大学教授の顔か、開業医の顔しか無く、病院医師の顔がない。しかし、これからの医療は病院の医療が大切なとき、病院医療に腰を据えた病院の医師、勤務医達を作ること、それには大学に頼らず、病院で教育し、医師を再生産することであると考え、院内で自由にディスカッションし、勉強するチーム作りをし、更に、結核研究所や癌研や都立病院の医師不足とタイアップして、国内留学のシステム作り等もして、医師が次第に集まるようになった。
*1970年浅間病院に着任した時、周辺はまだまだ田圃に囲まれていたが、五年前あれほど天に渦巻く様に乱舞していたホタルは田の周辺に限られ、野原、田圃の面にはよたよたと舞うモンシロチョウ、モンキチョウやムギワラトンボも、シオカラトンボも数は随分減ったなーと思ったが、特に、気になったのは、あのブンブン言う蜂の羽音が聞かれ難くなっていた。そして、佐久の眼病が話題となっていた。また、まだそれほど酷くはないと思われたが、自動車の冬のチェーンからスパイクタイヤに変わり始めていたが、佐久の空気は、まだまだ、素敵だったし、野菜は美味しかった。
【病院の赤字と医療の質】
病院の抱えていた第二の問題は慢性的な赤字であった。そんなときに、無駄な薬は使わない、無駄な注射はしない、無駄な手術はしない、不要な入院はさせないと言うような出来るだけ医学性に基づいた医療をすすめることは、摩擦を生じた。無駄な薬の使用は当時から現在に至るまで、日本の医療の大きな問題点である。例えば、現在でもそんな医師が居るが、当時、外科で手術をすれば止血剤一式が処方されるのが当然とされていた。そのどこに論理性があるのであろうか。連想ゲームのような処方行動であるが、大学では製薬会社との癒着があった。ビタミンKは閉塞性黄疸などの場合はキチッと投与が必要であるが、正常な人に全く必要ない。私の外科で止血剤一式の処方をしたことはない。抗生物質の使用、多くの薬剤の中では、可成り理論的に使用が出来る薬剤であるが、実際の臨床の場での使用は難しいことは事実である。しかし、これも非論理的、不要の過剰投与が行われ、残念ながら日本全国で現在も行われている。少なくとも非汚染手術には全く不要である。「感染無き所に抗生物質の使用有害無益」。このことを信州外科集談会で発表してセンセーションとなる程、当時は、手術をすれば抗生物質の投与が当たり前であったし、現在も続いている。いやいや、そんなことよりも。当時、注射で薬剤を投与することが、当たり前であった。風邪に注射一本。疲れにはビタミンとブドウ糖の静脈注射。小児でさえ、発熱には注射で筋注、静注にと当たり前。教科書にも、論理的に考えても、どこからもそんな、こんな医療行為は出てこないのだが、当然の如く日本全国で行われていた。注射の技術料と医師の非論理性との馴れのなせることであった。当時、日本一小さい学会と言われた小諸北佐久医師会医学会での注射の適応論争は画期的な出来事であった。『症状をすぐ抑えて、母親や家族を安心させてやるのも医療である。』との某医師に、鋭い批判の声が出た。それまで医師会に、無かったことである。
胃潰瘍の手術。これも日本全国の病院で当時の外科のドル箱であったし、外科医の訓練の為の基本的疾病でもあったが、これは良性疾患でもある。本当に手術適応なのか??手術適応については総ての患者について、内科外科の合同カンファランスにかけることから、病院として検討するなかで、穿孔、穿通等の合併症例以外は殆ど手術しなかった。現在では良い薬が出たことにも寄るが、胃潰瘍が手術適応でないのは当然のことである。この様な医療は、はじめ地域住民も戸惑ったようで、夜中に、発熱の子供を連れた母親に執拗に注射を要求されて、挙げ句の果て「先生は注射も打てないのですか」、と捨てぜりふを残されたり、お金を払わずに帰られてしまったこともあった。又、議会から病院の赤字に絡めて、「注射をしてやれば患者も納得するし、入院をさせておけば病院も儲かるのに」、と苦情を言われたこともあった。しかし、地域住民の理解が次第に深まり、信頼され支持されて、患者さんはどんどん増え、病院は大変忙しくなったが、この様な医療はどうしても赤字になった。初代院長吉澤先生は、『一生懸命に医療をやって、それで赤字になるなら、それは名誉ある赤字だ』、と名誉ある赤字論を唱えておられた。因みに、私は茅野で開催された、第一回地域医療研究会に、s54年度の「長野県市町村立病院事業経営状況一覧」という県が出している統計資料を分析して、『現行診療報酬制度の問題点』として、発表をした。浅間病院と病床数、職員数等もおよそ同規模、入院、外来の患者数、手術数、平均在院日数などの活動度も、およそ同じS病院とで、経営状況を比較して、浅間病院はわずかに赤字で、一方、S病院は当時で1億5000万円の大幅な黒字の差が薬剤使用量の差であることを証明した。つまり、当時は薬剤使用量が少なければ病院は如何に患者さんが押し掛けて繁盛し、忙しくても成り立たなかった。その基本構造は現在も変わらず。大まかには、薬剤が検査に変わっただけである。現在は検査の量の多さによって、つまり、世に言う昔は、過剰投薬に、今は、過剰検査によって、医療機関の経営はやっと成り立つ構造になっている。つまり、日本の診療報酬制度は『無駄使いによって、医療周辺産業を儲けさせることによって成り立つような構造となっていて、それは日本の医療をゆがめている』ことを示し、そのような構造のもとで自治体立病院、国保病院の使命として、佐久市立国保浅間総合病院は出来るだけ“あるべき医療のモデル、ペースメーカー”としての役割を果たし、『医療費が全国で最も安く、かつ、長寿である』と言う長野県モデルの一翼を担う様になったと言えると思う。佐久市では、初代、二代市長も議会も、このことを良く理解して、病院が発展し患者が増えて、医療の質を守りながらも、地方交付金を含めて何とかギリギリの黒字経営となる運営を続ける病院を誇りとし、惜しまずに支持と支援をして下さり、全国でも、長野県に浅間病院ありと知られる病院に育つことが出来た。近年、日本では盛んに構造改革が叫ばれている。医療界における診療報酬制度は最も構造改革の必要な制度ではあるが、何十年にもわたって、その基本は全く改められなかった。その中で、自治体立の病院や医療機関が私立の医療機関ではなかなか出来ない“あるべき医療をキチッとやれば、なかなか黒字には出来ない”ことをハッキリと国に突きつけて、この構造を改革すべきであったのが、その団体でもある全国自治体病院協議会や全国国保診療施設協議会等々も厚生省と共に、体制内改革だけで済ませてきたところに、現在の医療界の歪みが解消されない原因の一つがあると考えるのだが、如何なものであろうか?
(注:その後。DRG方式に変わっても基本的思想、基本構造が変わっていないことが問題で、
現在は制度の複雑さも、財政的にも追い込まれてしまって、医療の質を補完すること不能。)
*1972.07、田圃の中の木造モルタルの旧病院が5階建ての新病院に改築されて開院した時、田圃に囲まれた病院の5階病室の網戸には、夜になると、たくさんのチョウや蛾、甲虫類等などの昆虫が張り付いて来て、困惑した記憶がある。そんな記憶も何時の間にやらなくなり、周辺の田圃を敷地として病院建設を進めて来たことも影響して、ホタルはあっという間に消え失せてしまった。
そして現在、この佐久市、灯火に集まる虫どころか、昼間、青々と広がる田の面に動くものが殆どなく、畦の道にも、昔は必ずいたキチキチバッタの羽音、姿を数十年来経験なく、ブユもいない。
【【医療技術爆発】】
大学紛争が収拾され、私が佐久の地に腰を据えたs45年(1970)前後から、医療の技術爆発とも言える医学医療の急激な進歩発展があり、特に、病院医療の現場で進行した。それについて、医療現場での移り変わりを記述するのには分厚い一冊の本を書いても足りないと思うが、我々の外科を中心に特徴的な二~三のことについて、書いておこうと思う。
【輸液について】
<水と電解質の輸液~>
外科の手術は人工的にしばらく食事が出来ない状態にすることが多い。だから、麻酔法の進歩と抗生物質が外科手術の進歩を飛躍的に高めたと同じく、輸液理論と輸液法の進歩とが手術の発展に大きく寄与したことは言うまでもない。しかし、案外医療の現場ではこの輸液の理論が勉強されていたとは言えない。我々の学生時代には日野原重明著“水と電解質の臨床”がs30年に初版本が出て数年したところで、私は酸塩基平衡や呼吸機能の生理などと共に、今後の医療には大切なことと考え、繰り返し読んでいた。後で考えれば、余程腎機能や心肺機能の予備能が落ちているか、脱水やショックの重篤な場合を除いて、可成り適当に輸液しても、人体の方が対応するから良いのだが、しかし、これらのことを知っていると知らぬのでは、外科の術後管理の安定感に大きな差があることと、その後の、糖尿病の術後管理や高カロリー輸液の理論の組み立てに多いに役に立ったと思う。看護婦への何故蓄尿、比重や尿量測定が大切なのかという講義と輸液理論の講義と日頃の蓄尿の大切さの言動より、「ションベン医長」と言われもした。成人の術後短期間の食事が摂れない時や無尿期の輸液は“水と電解質の輸液”の教科書に沿ってでも用が足りた。しかし、横隔膜ヘルニアの新生児の手術での術前、術後管理は応用編である。ハタと行き詰まった。現実にどう輸液をすればいいのか?考えついたのが、『輸液は食事の代用』と言う、当たり前のことだった。人工栄養児の哺乳量を基準として、“水と電解質の量と少量のブドウ糖”を輸液した。数日間だ、部分的に補えばいいのだ。浅間病院は初代院長の吉澤先生が糖尿病を専門とされていたので、糖尿病患者の手術例が他の病院より多かった。予定手術は当然のこと、脱水や代謝の全く狂ってしまった緊急手術例もあった。当時、糖尿病の術後管理については、その道の専門家という方の管理法が成書に出ていたが、結論から言うと机上の管理法で現実には間違っていた。浅間病院では、看護婦が血糖チェックに馴れていることもあり、術後患者を血糖やケトン体のチェックで刻々と追って行くと、術前のインシュリン量や経口薬剤量による糖尿病の重症度と術後の血糖の変動は必ずしも平行せず。術前状態への回復も、手術の大きさ、感染の有無、その他の要因で個々のケースによって全く違うことが判った。そこで、水と電解質に加え、必要なカロリーをブドウ糖量で決めて、血糖とケトン体のチェックをしながら、レギュラーインスリン量を変動させて、点滴内に投与する方式を編み出して、可成りの重症例も乗り切ることが出来るようになった。この場合、血糖値は200前後の高めにコントロールすること、術前状態への回復は尿の比重の推移が大変に参考になること等々を多くの実例を通して知った。こうして、水と電解質とカロリーの輸液による管理が出来るようになった。
<高カロリー輸液>
次ぎに問題となったのは、低栄養状態の患者の術後管理であった。当時は食道癌で水も通らなくなってからとか、胃癌で幽門狭窄となり、これ又、水も食物も全く胃から出ずに脱水と栄養失調となって、はじめて、病院を訪れる患者も大勢いて、この様な患者さんを如何に安全に手術して回復させるかが、大きな問題であった。つまり、蛋白質をどうやって補給するかと言うことである。当時、プラズマプロテインフラクションとかの血漿蛋白製剤が出回り、多くの病院で蛋白の補給、栄養の補給として現実に患者に投与されていたが、生化学や栄養学から言えば、投与された蛋白はそのまま、その個人の組織蛋白になるのでなく、組織蛋白になるのには一度分解されて、再合成されなければならない。その場合、必須アミノ酸が不足するので微々たる量しか栄養としては役に立たない。投与するなら適切な組成のアミノ酸液でなければならないと言うことは学問の世界では判っていた。それにも関わらず、日本全国で多くの医師がそう信じて、栄養補給の意味で血漿蛋白製剤を投与し、それは当時だけでなく、つい最近でもそう信じて投与している医師がいて驚くほかない。なんと無駄に血漿蛋白製剤の投与をして来たか、今は置こう。そこでどうやって蛋白系を補うかだが、s48年(1973)、卵白を分解した組成を中心としたアミノ酸製剤の研究をしていた田辺製薬から試供品を取り寄せて、我々がこれまでに完成した水と電解質とブドウ糖の組み合わせの輸液にこのアミノ酸製剤を加えた輸液のメニューを作り、癌末期の経口では全く食べられなくなった患者さんにお願いして使用してみた。そして、その効果は劇的で、癌患者さんは飲まず食わずであったが可成りお元気になられた。その後は、他院より送られて来た縫合不全の患者が驚くべき速さで治癒する等の経験をした。その第一報をs48年12月に、信州外科集談会に報告した。その組成は、輸液は食事の代用品との考え方が基礎になった。初めはなかなか計算通りには行かずに予想以上の尿が出て、水分量を増加させる等の必要があったが、その原因は、まだ脂肪製剤はなく、必要カロリーを全部ブドウ糖で投与した結果でもあるが、実は、アミノ酸が塩で存在し、その補正の電解質や更に安定剤や防腐剤などまでが含まれていることが判った。当時まで、薬剤と言えば少量使うもので、その薬剤に含まれる安定剤や防腐剤は微量のもので、無視しうるものと考え、そうは問題にならなかったのだろう。又、医師の関心も主成分のみにあって、添加物など無視していた。食物が薬剤となったことで、主成分以外のものが問題になることを知った。このことも置くとして、まだやっと医師が定着し始めた小病院の小外科ではあったが、長野県では最初に、全国でもキット五本の指に入ったと思うが、高カロリー栄養輸液を手がけて、独自のメニューを完成し、この技術を武器に手術適応の範囲を広げ、特に高齢者外科の可能性を飛躍的に高めたと言ってよいと思う。因みに、信大病院でこの高カロリー栄養輸液が普通に行えるようになったのは、我々より五年ほどは遅れていたと思う。又、この技術の波及効果について、s49年の信州外科集談会で、これまで救命できなかった多くの症例を救命できる様になった。『大変素晴らしいことと思うが、この様な技術は悪魔の技術にもなり得る』我々としては医哲学的問題も含んでいるが『適応を経口で再び食事が出来る可能性のある患者に限るべき』と考えると発表し、降旗教授(信大外科、当時)に、『本当にそれで良いのか?』との質問を受けた。現在では、その適応が危惧した如く拡大されて色々な問題が生じてもいる。私は現代の医療技術爆発で可能となった諸医療技術にうっかりするとヒトを不幸にする可能性があり、大変難しいことではあるが、『出来るけれど、やらない』と言うことを、この技術爆発を押し進めてきた者の一人として、医師は考えねばならぬ時になっていると思うが、どうであろうか?
【高齢者の外科について】
s45年(1970)。医学性に基づいた医療をやろうと佐久の地に腰を据えた当時。例えば、福内院長(第二代、外科)は、直腸癌は60歳前後で、根治手術をやらずに人工肛門に止めておられた。医師の陣容、麻酔、輸液等の医療条件を考えるとまずまずの線であったかと思う。最近では、90歳以上でも充分根治手術をやるだろう。当時に比べると、お年寄りそのものが元気になったようにも思うが、麻酔や輸液その他の医療技術がそれを可能としているからでもある。我々の外科は平均寿命の延長と麻酔法の進歩、高カロリー栄養輸液を含む適切な輸液療法を初めとする術後管理等に、一歩一歩症例を重ねて自信を得て、長野県では最も早くから高齢者の外科に挑戦した外科と言えると思う。s50(1975)の信州外科集談会では、『老人外科について』と題して、最近5年間の全身麻酔下開腹以上の手術をまとめて、腹部の手術に関しては特別のことがない限り、74歳以下は若人と同じ手術が可能で、75歳以上57例、うち80歳以上19例、84歳以上4例,最高が89歳の吐下血の胃切除術であると報告している。当時、全国では70歳と言えば高齢の外科と見られていたし、老人外科を手がけ始めた信大の外科より、遙かに多い症例数だった筈である。医師が地域に腰を据え、キチッと目標を定め、グループを組めば可成りのことが出来ることを証明し得たと思う。
【【長野県国保の地域医療とその変遷】】
<保健予防活動と診療の二本足の医療>
長野県国保直診医師会はs29年に発足し、(今年)50周年を迎えて、記念の長野県国保地域医療学会を開催し、国保の地域医療活動を振り返えり今後の活動を探る鼎談、シンポ等計画されている。浅間病院の初代院長吉澤先生は、s38年(1963)長野県国保直診医師会第4代会長に就任し、国民皆保険となって診療活動のみが重視されだした当時の風潮の中、医療の本当の目的は病気を治療するだけでなく、病気にならないようにすることだと述べられて、“保健予防活動と診療の二本足の医療を行うこと”を錦の御旗として、『国保の地域医療』を推進された。例えば、当時、長野県は脳卒中死全国一位であったが、血圧検診、一部屋温室運動や減塩等の食生活の改善等々の活動を通して、脳卒中死亡率の低下など大きな成果を上げられた。これらの活動は当然、医師のみではできず、保健婦や行政を巻き込み、現在では医療保健福祉に関わる施設、組織、人、そして地域住民をも巻き込んで広範な実践活動となりの『長野県国保の地域医療』として知られている。多くの医師がそうであったと思うが、私も浅間病院に赴任した当時はこの地域医療ということを余り知らなかった。とにかく、医学性に基づいたキッチとしたグループの医療(病院医療)が求められているし、第一に、やることであった。しかし、学生時代、結核研究会に所属し、集団検診や発見患者の追跡調査等して、伝染病である結核の予防活動が如何に大切かは良く判っていた。保健予防活動。言葉では判っていたが、伝染病でない、感染しない成人病の集団検診にはやや違和感もあった。又、何となく使ってしまうが、健康管理の『管理』という思想にも、やはり違和感があった。外科医として日々癌の手術に取り組み、当時の超進行癌と闘って、摘出できた満足感はあったが、進行癌の予後に空しさも感じていた。早期発見早期治療の二次予防に力を入れたのは当然の行き着くところで、誕生月検診などの必要性を訴える講演活動など盛んに始めた。地域医療の入り口を覗いたと言うところか。大きな転機はある村の保健婦さんから講演を頼まれ、これまでの流れの講演の積もりでいたら、与えられた題が、『癌の一次予防』であった。
<公害・環境の問題も>
ハッと気が付いた。当時、小さな浅間病院は周りを田圃に囲まれていた。ウンカの発生等に対しては、飛行機で医師住宅の上、病院の上お構いなしに農薬がまかれた。病院の廊下が白い農薬でツルツル滑るほどの散布があった。時には、田の周りに赤い旗が立っていた。通学路で子供達はすぐその横を通って通学していた。新聞には有機リンの急性中毒で死者が出た、と時には書かれていた。気が付いてみれば、昔、レンゲの咲く田に寝そべって、聞いたあのブンブンという羽音を絶えて聞かない。昔、初夏に新入医局員でやって来た時、病院の周りをあれほど乱舞していた蛍も全く姿を消している。気が付いて、よく小川を見れば、フナやドジョウはおろか、殆ど動く生物の姿はなく、焦げ茶色の藻?が小汚なげに揺れているのみではないか!!レーチェル.カーソンの『沈黙の春』は気が付けば身の回りでないか!!浅間病院の眼科で視野狭窄の子供達が見つかって、佐久の奇病と問題にしている。テレビで佐久病院の若月先生は農薬説には反対だと言う。素直に見れば慢性有機リン中毒でないか。べトナムでの枯葉作戦による奇形児の報告。すぐに発癌とは言わないまでも、この環境汚染が地域住民の健康にいい訳がない。それからは、講演を頼まれると聴衆は癌の早期発見早期治療についての話を期待しているようではあったが、必ず、最後には癌の一次予防に関連して、環境汚染、特に水、空気、周辺環境の汚染の話を加えることにした。農薬や合成化学物質の環境汚染は自然界の生物の変化を通して知覚されるが、目には映ってはいるのだが、多くの人には気付かないと見えない環境問題でもあった。考えてみれば、1956年(s31)に発見され、工場排水の水銀が原因と判明した水俣病も、米軍の枯葉作戦による奇形児の発生等々も、明らかに加害者と被害者が別々の典型的な公害病であったが、殺虫剤やスパイクタイヤ粉塵問題は、明確に加害者と被害者の区別のない、加害者であり被害者でもある新型の公害で、臭気や埃、空気の濁りがハッキリと五感に、目に見えてはいても追及は鈍かった。
<高齢社会の問題も>
そこで、公害問題、環境問題を考える部会を直診医師会の中に立ち上げた。また、長野県各地では、地域に腰を据え、地域のニーズを肌で感じながら、日頃の医療活動を推進している中で、1)高齢化社会の進行、2)医療技術の急速な発展と病院医療(キュアに軸足を置く医療)の発展、3)現代医療の幻想に巻かれた病院志向などが必ずしも地域住民の幸福に沿わないことが実感されるようになり、長野県国保地域医療学会では高齢社会への対応、終末期への対応、死への対応等々への関心が次第に高まり、一方では、“保健予防活動と診療の二本足の医療”と言う概念からの集団検診への疑問が提示された。丁度その頃、私は直診医師会の副会長、会長としての仕事をすることになった。そんな長野県の各地域での国保の地域医療活動の実践を踏まえて、意識や考え方を大切にすることに努め、幾つかの研究部会を立ち上げて、議論する中で、自分自身の考え方をも整理した。しかし、時代の流れは、それなりに流れたと言わざるを得ない。
<全国国保地域医療学会の開催>
1994年、『すすむ長寿社会に~発想の転換を求めて~』のメインテーマのもとに、第34回の全国国保地域医療学会を長野県で開催した。この学会が全国でも高く評価されたのは、長野県各地での日頃の地道な、現場のニーズに基づいた実践活動と深い思索と熱の籠もった議論に支えられたものであったからだと思う。学会の開催要領の“ごあいさつ”の中で、『本年10月、第34回全国国保地域医療学会を長野市で開催することとなりました。現在、社会は激動の時代で、21世紀に向けて、大きな転換期にあります。地域医療も、疾病構造の変化、医学.医療の技術爆発ともいえる急激な進歩発展、そして、急速に進む長寿社会を迎えて、大きな転換を求められています。そこで、今回の学会のメインテーマを「すすむ長寿社会に~発想の転換を求めて~」といたしました。自然観、死生観、健康観、疾病観、価値観、ライフ.スタイルのこと等々にも考えを巡らす学会にしたいものと考えております。シンポ、パネル、自由討議には現在の国保の地域医療において、最も検討すべきことと考える、国保病院の役割、ゴールドプランのこと、保健婦さんのことを取り上げました。又、示説では地域医療における現代医療の功罪、医療幻想のことなど考えてみたいと思います。高齢化社会を迎えて、国のすすめるゴールドプランやその他の諸施策と私共の実践を目指す地域医療とは、その目的を同じくすることが多いのですが、国の諸施策は当然のことながら鳥瞰図的であり、一方、各地での実践は虫瞰図的であるといえます。本来、この両図が擦り合わされて、実用に耐える地図ができるもので、このことは、本学会の大きな目的の一つとも考え、この観点でそれぞれの討論を期待しています。以後略』と挨拶を出しました。
(虫瞰図と言う語は、私の造語であるが、挨拶の内容ピッタリ意味が通るので敢えて使った。)
開会の言葉では、近年の医学.医療の進歩によって、これまで治せなかった多くの疾病が治せるようになり、又、コントロールできるようになり大変素晴らしいことだが、現代は医療幻想の時代に陥って『一般人はうっかり、「あらゆる病気は治るもの」との幻想に陥ってはいないでしょうか。医師は、又、「あらゆる病気は治せるもの」との幻想に、そこまで至らなくても「あらゆる病気は治さねばならぬ」との強迫観念に陥ってはいないでしょうか。そして、それは老化にも、果ては寿命、死に対してさえも及んでいるようにも思われ、私共の地域医療にも大きな影響を及ぼしています。高齢化社会が進んで、老化、死が、地域医療の大きな対象になるとき、私共がまずこの幻想から覚めて、地域医療如何にあるべきかを考えるときでないかと思います。』と述べて、特別講演は「自然と人間」及び「地域医療とMRSA」とし、我々人間がより良く生きるために、いかに自然、生態系が大切か、又、これからの地域医療に環境問題が如何に大きな課題であるか、心に刻んでいただき、示説では「診療所から見た現代医療をかんがえる」と地域での過剰な期待とのギャップや医療幻想のことやこれからの診療所の在り方等々を議論してもらうことにしたと、述べた。
キュア偏重の医療にたいして、『診療と保健予防活動の二本足の医療』の実践でスタートした長野県国保の地域医療は、時代の流れと共にその概念を含めたより広い“生老病死を支える医療”との概念に広がり、そのような医療は、その目的を達成するためには、医療関係者のみならず、首長を先頭に保健福祉その他の行政、地域の施設、組織、地域住民総参加が必要であると考えられる。これからの長野県国保の地域医療とはキュアの医療も必要ではあるが、ケアーに軸足をおいた住民総参加の“生老病死を支え、支えられる医療”→『生老病死を支え、支え合う地域住民総参加の医療』と言ってよいのでないかと考えている。そして、そのような医療が今、全国でも最も必要な医療であると私は考えている。
【病院医療の時代】
<医療技術爆発から医療幻想の時代に>
1960年代後半から始まった医療技術爆発を伴った医学・医療の急激な進歩発展は、この間の約30年に病院医療の時代を築いたと言えよう。例えば、1960年代に始まった体外循環を使用の開心術は、昔は心筋保護の技術が充分でなく、血流遮断時間が限られていたので、一部の心臓外科医の名人芸に支えられていたところがあったが、現在では心筋保護技術の進歩により、飛躍的に長時間の血流遮断が可能になって、手術の基本と頭脳がしっかりした心臓外科医であれば、誰でも適切な手術が可能となった。強いて言えば、心臓移植のことを考えれば、異常な心臓を体内から取り出して、体外の工作台の上で異常部分を修復して、再び体内に戻すことだって考えられる。こうして、昔なかなか、診断がつかなかった病気、治せなかった病気も簡単に診断をつけたり、治せるようになったことも事実。大変素晴らしいことではある。しかし、一方、上腸管膜動脈閉塞症にて、全小腸に壊死を生じて、当然、生きられない患者に人工腎臓、血漿交換療法、ビリルビン吸着療法、高カロリー栄養輸液をはじめとした各種輸液、昇圧剤、循環補助剤、抗生物質等々を駆使して、普通自然には数日から1週間以内に死亡する症例を2ヶ月弱生存させた、まるで、動物実験のような医療?が現実に行われ得る様にもなった。私は、こうして現代は「医療幻想の時代」と言えるのでないか?と思う。あまりに急激に、昔、治せなかった病気を治せたり、コントロール出来るようになり、ついうっかり、一般の人は「あらゆる病気は治るもの」との幻想に。医師をはじめ、医療人は「あらゆる病気は治せるもの」との幻想に。それほどでなくとも「あらゆる病気は治さねばならぬ」との強迫観念を持つようになっていないだろうか?それが老化にも、更には、寿命にさえも及んでいると言えないであろうか?正に、現代版不老長寿の思想であり、冷静に考えてみれば、そんなこと有り得ないと判るはずなのに。医学的知識が増え、医療技術が進歩し、確かに一分一秒心臓を動かしておく技術は可成り可能となった。しかし、生命にについては判らないことだらけではないか!判っていることはほんのチョッピリで、大部分はブラックボックスの中にある。
<ホメオスターシスを忘れた傲慢な医療> 現代の科学は分析の科学、医学でも細かく分析した方の知見は多いが、統合した方のことは殆ど判っていないことだらけである。例えば、ヒトの60兆から70兆あるという多くの細胞がどう調節しあって生命機能が営まれているのかさえ、殆ど判っていない。その医学の上に成り立つ、医療はホメオスターシスが破綻したら生命を支えるなんて不可能なこと、冷静に考えれば少なくとも医師なら判るはずなのに!!『我、手をかし、神、これを癒し給う。』アンプロアス・パレの言葉は今でも全く変わっていないことを殆どの医者が忘れてしまっている。小川鼎三著『医学の歴史』を読めば、その時代時代に行われていた医療の少なくとも7割方は後から考えれば間違ったことが行われていたと思う。現代医学はそれでも昔よりは多少良いのかも知れないが、多いに間違っている可能性を常に考えておかなければならない。医学性に基づいたグループの医療を追求し、病院医療を推進してきたが、いつの間にか本来の目的を外れ、間違った方向に歩み出しているのではないか。昔、二・三十年まえまでは、医学・医療の進歩はおおむね患者さん、住民にとって利益であった。医師がどんなに、『やった、やった』と言っても、お釈迦様の手の内にあり、Natural Course(自然経過)を大きく外れることはなかった。しかし、医療技術が進んだ現在では、うっかりすると患者さん、住民に対して不利益、害さえも及ぼす可能性が出てきた。進行癌の手術適応を拡大、某タレントの腹膜播種から腹壁までも転移した胃癌の再々手術をもする無謀な外科医まで出現した。上腸間膜動脈閉塞症では、殆どの小腸が壊死した症例で開腹手術後に、疼痛を麻酔と人工呼吸でコントロール、栄養は高カロリー栄養輸液にタンパク製剤の輸液。肝不全に吸着療法、腎不全に透析療法が、さらに加えて、感染には抗生物質や免疫の強化?等など、等などの医療処置をして、一ヶ月を超えて生かした?症例さえも出現した。お釈迦様の指の向こうにいってしまっているものをチョット待てと、無理矢理引き留めている可能性が随分ある。勿論、治せる病気は全力を持って治す。だが、治せなくとも、共に生き支える医療は医療の大きな、大きな分野である。当然、死に行くことをいかに支えるか!これも又、医療の大きな仕事である。治せない病気に幻想を持って、万が一などと言って、とことんやること、間違いではないか。医療適応と言うことがとても大切な時代になった。
【論文:診療所の時代】
<医療幻想から醒め、支え支えられてよりよく生きる> 1993年。診療所の医師が集まって、今後の活動について話し合い。信州医療研究会を発足させることとなり、各自の主張や診療所活動に関する率直な感想などを載せる会誌を出すことになった。長野県直診医師会の中で、診療所の医師達は診療所部会を結成して、活発な活動を展開していたが、もう少し自由な発言の場として研究会を捉えて、医療とは何か?地域医療とは?健康とは、生きるとは、命とは、死とは、宗教、音楽等々等々について、更には、首長や地域住民との意識のずれ、苦悩等々、自己責任のもとに書いて、今日まで発刊をし続けてきた。たまたま、当時、直診医師会長をしていた小生が創刊号に寄稿を頼まれた。ちょうどその頃は、94年の全国国保地域医療学会を長野県で開催することもあり、長野県国保直診医師会では各地域での実践活動をもとに、考え方や意識の問題など、長野県国保地域医療学会や各研究部会等々を中心に議論されていた。今から約10年前の小生の考えがよく出ていると思うので掲載させていただこう。
序文 これからは診療所の時代 1993.8.
佐久市立国保浅間総合病院 院長 倉澤 隆平
現代は医療幻想の時代であると思う。1950年代の後半からのこの30年余の間に医学・医療は急激に進歩発展した。特に、医療において、基礎科学や工学、薬学等々の周辺科学や技術の進歩に支えられて、医療技術爆発とも云える急激な発展があった。私は医療に携わるものとして、丁度この爆発の過程を身をもって体験したが、例えばそのほんの一部分である輸液法の進歩についてみても、それがどれだけ現実の医療の現場を激変させたかを、若い医者達に実感として伝えることは不可能なほどである。こうして、確かに、昔は治すことができなかった多くの疾病を治せるようになったことは事実であり、医療の発展が社会に大きく貢献したことは事実である。しかし、一方、現代は、一般人は「総ての病気は治るもの」との幻想にまかれ、医療人、特に医師は「病気は治せるもの」との幻想に、更に「治さねばならぬ」との強迫観念にとりつかれた医療幻想の時代に陥ってしまっている。例えば、急性脳症という殆ど致命的な疾病で子を亡くした親は、そこに必ず医師の過誤があったはずと訴訟を起こし、また、例えば、医師は老化現象をも治さねばならぬと数々の薬剤を投与し、果ては、死に臨むと適応について思考を停止して、徹底的に科学的、医学的に戦って破れたのだとの免罪符に安心して、幻想にまかれていることに思い至らない。当然、医療幻想のもとには、科学的、論理的思考が殆どの現実の問題にも、例えば自然環境問題にさえも、万能であるとの幻想があるのだが、今回はこのことは置いておこう。
こうして、診断や治療の技術がどうしても病院に集積するので、今や患者も医師も病院指向であり、病院の時代である。しかし、幻想から覚めて考えてみれば、放置しても自然に治る疾病やいわゆる成人病等の、まあコントロ-ルは可能だが治すことのできない疾病を除くと、本当に医療が治癒に関与している疾病は少ない。更に、高齢社会が進み、コントロ-ルすべき慢性疾患、老化による障害を抱えるお年寄りが増え、人生の最後を人間として如何により良く生きて頂くか、そして、如何により良き死を支えてあげられるかが、再び、医療の大きな課題となっているとき、一人一人に福祉を含めて、肌理細かい対応をすることは病院だけではできない。いや、むしろ診療所の大きな役割と言うべきである。これからの高齢社会は多くの診療所と病院と地域社会が手を携えて対応しなければならない時である。日本の医療で今、最も必要なことは診療所を作ること。診療所の時代がやってくるし、来させねばならない。それには幻想から覚め、意識の変革がまず必要なことと思う。さて、診療所部会が研究会を発足させ、会誌を創刊するという。我が診療所部会は全国でも最も活発に活動していることは自他共に認めるところである。日頃の多忙な活動の合間に、必要だから会誌が刊行される。定期的でもよし、不定期でもよし、自然体で進め。』
この寄稿文の題名から、研究会のまとめ役であった網野皓之先生が会誌名を『診療所の時代』と命名されたが、当時、病院長であった小生は“日本で今、最も必要なことは診療所を作ること。診療所の時代がやってくるし、来させねばならない”と書いてはいるが、まだ“肌理細かい対応をするには病院だけではできない。いや、むしろ、、、”と病院に診療所が協力してと言う考え方で、自分自身の仕事は、問題を抱え込みつつある病院にはなったが、まだ、医療の中心は病院で、病院をより良く作り上げることで、自分の仕事は終わりとすると考えていた。キット、次の若い世代が診療所作りをしてくれるだろう、して欲しい、いやしてくれなければ困ると言う立場であった。 よもや数年後に、診療所の医師になっているとは夢にも考えていなかった。
【【病院医療から診療所の医療へ】】
【病院長職を辞す】
大学の医療に絶望して、これからは病院医療の時代と佐久の地に腰を据え、大学紛争の波をもろに受け、今にも医師がいなくなりそうな小さな小さな病院で医師を集め、教育して互いに勉強し合ながら病院作りを始めた。初代の依田市長、二代神津市長の理解を得て、又、市民の信頼と支持を得て、常勤医師数40名余、300床を越える病院にまで成長させることが出来た。しかし、三代目、厚生官僚出身というM市長とは、医療福祉について、基本的考え方が全く合わなかった。よく考えてみれば、大学紛争にて批判した日本の医療の諸システム、医療を歪め、根本的な構造改革が絶対に必要な診療報酬制度等々に役人として関わってきた人だから、考え方が合わないのが当たり前と言えば、当たり前であった。しかし、医療福祉の考え方だけでなく、職員の採用、人事等々の行政手法というか、政治手法というのも全く賛成できるものではなかった。が、相手が反論できないところでの批判は、フェアでないので具体的なことは止めよう。堂々と主張できる場が出来ればやってもと思う。さて、色々なことがあったが、私も猛烈社員ならぬ猛烈院長であったと言えよう。二、三の病気にはなったが、この約28年間殆ど休むこともなく、病院作りをして来た。お陰様にて、浅間病院は多くの市民の信頼と支持を、又議会の支持も得て、長野県では勿論のこと、全国でも佐久市立国保浅間総合病院ありと知られる病院になった。しかし、1997年11月、突然の下血からS状結腸に癌が発見され、年末に手術。その後、これまで通りに、猛烈院長として頑張って(何で、そんなに頑張る意味があったのか?今では不明だが、そうゆう時代を生きてきた一人だった)、通常の年末年始の休暇のみで、新年の仕事始めより通常勤務を開始した。頑張り過ぎただけでなく、手術で体調が不十分の時にもかかわらず、医師の雇用問題や本来は診療報酬制度の構造問題にも関わらず病院の新築、又は改築に絡めて経営に関して、市からの圧力等々があり、ちょうど還暦の時期で病気が一度に噴き出て来たのか、狭心症様の胸部の痛みと嘔気を伴う耐え難い腹痛発作とに見舞われて、すっかりうつ状態にもなり、遂に、ダウンし、入院となった。結局、総胆管結石で手術となり、その後精神的にもすっかり参って、多くの職員や市民には大変申し訳ないと思ったが、そして、妻子を路頭に迷わす可能性もあったけれども、定年5年前の1998年6月に、約28年間勤め育ててきた浅間病院の院長職を辞すこととなった。院長辞任後の2年間は、浅間病院名誉院長とか、今、考えればどうでもよい仕事の傍ら、市内の故黒澤病院長には大変お世話になって、私が考えていた高齢者の医療に携わったが、佐久市の地域そのものが、システムとして地域住民の立場からでなく、鳥瞰図と虫瞰図の二図に基づいてではなく(現場で仕事に携わる虫が這って知る視野を抜きに、鳥の視野だけの官僚的発想で)行われる行政に、佐久市では市民のための医療福祉は、当分の間、無理であると悟った。
【北御牧村温泉診療所】
<ケアポートみまき>
2000年6月小山治村長に乞われて、北御牧村(当時)の診療所に赴任して、この村のシステムには、本当にびっくりした。『ケアポートみまき』と言う全室個室の特養に、診療所やプール、村の保健福祉課等々が集まった保健医療福祉の総合施設が、介護保険施行の五年も前に作られていたのである。しかも村立の診療所に民間のみまき社会福祉法人、身体教育医学研究所と社協等なども、一連の建物群の中で一つの目的に向かって、入り乱れ共働している不思議な組織の『ケアポートみまき』であった。医療でも、福祉でも、『建物』は必要であった方がいい。だが、一番必要なのは、『人、組織』だと思う。その元には、『心』が大切とつくづく思う。しかし、人も、心もない建物だけの医療福祉施設が世の中には結構多い。それは収容施設の発想だからと私は思う。
長野県のある村の診療所に長く勤めたある医師が『出来れば住み慣れた土地で、住み慣れた家で、家族に囲まれて、人生の最後を過ごしたいという多くのお年寄り達の願いを叶えさせてあげたい。』と書いておられた。現在では、色んな事情でなかなか難しいことではあるが、本当に出来れば叶えてあげたいと思う。医療福祉、特に、地域医療、地域福祉の本来の目的は『お年寄りに限らず、地域住民が生活の場で、“より良く生きてゆくことを支える”こと』つまり『生老病死を支えること』を、お互いに力を出し合って皆で支え合うことだと思う。その意味では、この村の医療福祉の追求は、勿論、医療福祉に100%はないから完全とは言えないが、全国でもトップレベルであると言ってよい。それも村長が中心となり、地域住民で作り上げたと言う。どんは組織でもトップが大切であることは最近の日本の社会を見ていれば良く判る。当然、長野県国保の地域医療の責任者は地域住民の代表の首長である筈で、特に医療福祉は首長に大きく依存するとつくづく思った。
診療所を引き継いで直ぐに、多発性骨髄腫で家族に見守られ在宅で静かに亡くなられた方と食道癌で次第に衰弱されて、お嫁さんに介護され、明け方にそっとこの世を去った心温かな在宅介護の死を続けて経験した。病院での多くの死とは異なる在宅での静かな死に感動し、さらに、遠くに住む家族は長い休日などでは帰るが、認知症が進み寝返りも打てない全介助の、糖尿病もある老女が、畑の中の一軒家で、ヘルパーと訪問看護と往診で、独りで実に小綺麗に生活しており、そんなことの出来るシステムに驚いた。
<地域で生き、地域で死ぬ>
この村では介護保険施行前から、例えば、痴呆がやや進み、糖尿病でもあり、全くねたきりで、寝返りも打てない状態で、しかも家族が遠い地に住んで、偶にしか帰って来なくても、家族や本人が希望すれば、ヘルパーさんの訪問に訪問看護、往診にディサービスの入浴サービス等を駆使して、自宅で独りでも暮らせる。それほど社会的介護のシステムが整っていた。しかし、一方では、小生の赴任時は他と変わらず、ここでも大部分の人が医療幻想に巻かれた意識状況にあった。死は病院で迎えるのが、本人にとっても良いことで、家族もそうすべき、と思っていた様である。
着任当初は診療所の日々の仕事に忙殺され、在宅や施設死は時代の流れに沿う対応しかしてこなかった。日頃、往診してる患者が最後は病院に運ばれて亡くなられたと聞いても、特養に入所中の住人が夜中に亡くなりそうになって、家族の『出来るだけの手当を』との言葉に、救急車で病院に送りましたとの看護師の報告を受けても、そのまま認めていた。だから初めの年は病院死がかなりあった。しかし、仕事にもやや慣れて、お年寄りのこと家族のこと、病院に送った患者さんのその後のことを知るにつれ、地域での診療所の大切な機能“患者さんの死を支える”ことに徐々に力を入れることになった。当時病院では、全介助の寝たきりで、長年、在宅で長男の嫁の介護を受けていたお年寄りが人生の終わりの時を迎えて、親戚や兄弟達を呼んだら、日頃滅多に顔を見せない次男が『何で?こんな状態なのに病院に連れて行かないのか?!』と言うので、救急車で受診したと言う様な、全く無意味なこと、ご本人にとっては最悪のことがしばしばあった。社会全体が医療幻想に巻かれ、病院では医師さえも、ホメオスターシスを忘れ、臨終で心臓マッサージをすることが当たり前とされた風潮の時代であった。この医療幻想の時代を作った責任を負うべき医師として、また地域医療を追求してきた医師として、S状結腸癌の術後ではあるが、キッと、まだ数年は生きるであろう医師の最後の仕事の場として、この与えられた地域は願ってもない地域と思えた。医師がホメオスターシスを深く理解し、医学知識と医療技術とが調和した現実の医療を心がけ、また社会が医療幻想から醒めて行けば、病院のキュアの医療は大きく変わるであろう。そして、地域が医療幻想から醒めて、ケアに軸足を置く医療・地域医療のシステムが整い、施設も含めて、地域の看護・介護力が整えば、総てのヒトに必ず訪れる死の、少なくとも殆どの自然の死、今の病院死の九割は、住み慣れた地、住み慣れた家で迎えることが出来ると思っている。そのためには一般の地域住民の意識の変化・変革が必要であり、医療・看護・介護に携わる者達が、まず、医療幻想から覚めて、一歩一歩実践活動をする必要があると考えていた。
<実践活動のもと、先ず、マンパワー>
北御牧村はもとより、長野県下の自治体立診療所の殆どは、これまで一人所長が常識であり、当然のことと考えられていた。原因は種々あるが、病院すら医師が集まらない医師不足?と経営問題が主要であるが、これも実質は疾病保険制度に過ぎない国民健康保険制度の、いやいや、日本の保健・医療・福祉の質や在り方についての貧困な思想がなせる結果であると私は考える。ただ、複数体制の診療所作りについて別項でまとめるが、パート医師の支援枠などを進めつつ(2003年には、村の理事者は複数体制の診療所機能を認め、現在三名で常時二人体制となる)、 本当に病院の医療が必要なことはほんの少しの場合しか無いこと、病院で死なねばならぬことは殆ど無いこと、特に、癌末期などは在宅の方が遙かに良いこと。その支えは診療所をはじめ在宅看護、ホーム・ヘルパーなど共働してキチッとすることを一例一例、実際に進めた。更に、当時は、特養「ケアポートみまき」のショート・ステイのベッドを、有床診療所のベッドの様に、使用が出来る様になって、キュアの医療が不要で介護・看護が主なお年寄りはワンポイントのショート・スティで、安心してケアの医療が出来た。このショート・ステイ機能が、この村の在宅医療をシッカリと支える主要な機能を果たしてくれる様になった。1976年には病院死が在宅死を上回り、日本全体では勿論、長野県でも多くの地域で在宅死がどんどん減少する中で、この村では在宅死が増加している。因みに、2000年6月にこの地に赴任し、初めの二年間は私も病後で、精神的、身体的にも不安定で、また、医師も一人。日々の外来に往診、特養の健康管理等に忙殺されたが、徐々に在宅死を支援する体制を整えて、診療所で書く死亡診断書の枚数が次第に増加しつつあった。
<一歩一歩、医療幻想から醒めて>
(施設・地域での看護・介護、そして看取り)
食事を除いて全介助状態で特養にお住まいの93歳の女性。2001年の冬、突然の高熱でインフルエンザを発症。呼吸音にはかなりの喘鳴が聞かれるが、諸検査でも肺炎所見はなく、酸素飽和度も充分で、経口摂取もまずまずであった。家族も、高齢でもあり、施設での治療を希望。吸入療法等には反応鈍く、喘息様呼吸状態が続くが、食事はとれていた。職員も食事介助や水分補給等など良く看護・介護をし、二週間ほど経過したが、さすがに高齢か?徐々に食欲低下して、食事介助に口も開けなくなる。某日、意識も不明確になり、喀痰でゼロゼロ時には、酸素飽和度も低下する様になり、夕刻には下顎呼吸となった。
ここに至って、若い看護師に「責任が持てないので病院に送って欲しい。」と訴えられた。患者を何時病院に送るべきかは大変悩ましいことで、内科的対応は十分採ってきた積もりであるが、この状態に至ってしまった。いまはもう、病院に送るべき時ではないと判断。家族には「もう最後なので、良く看取ってあげて欲しい。」と来所を促した。職員達には、この方にとって、今、最も必要なことは看護と介護で、生死は分からないが、この年齢でこの状態で、侵襲的医療はすべきでない。責任は主任のY看護師が引き受けてくれた。
その夜、子供達家族、お孫さんに曾孫までやって来た。一族郎党揃い一晩様子を見守った。顔を横に向け、下顎をガクッと落とし、舌をだらんと出し、意識は無く、やっと、ヒュ-、、、ヒュ-、、、と呼吸をしている状態だった。それでも吸入と酸素の指示は出し、夜中か、朝には呼ばれることを覚悟して帰宅した。ところが、ところが、驚くべしである。翌朝、呼吸状態が回復し、意識も出てきた。ケアワ-カ-が、少しずつ、ゼリ-を食べさせた。呼吸状態はどんどん回復して、喘鳴も徐々に聴かれなくなり、酸素も中止。一週後には、食事を全量摂取。あれよ、あれよという間に、手厚い看護と介護で褥創もなく回復した。
輸液や抗生物質等が多少は役立ったのかも知れないが、医療が命を救ったのではない。彼女はその時が来て、自然に治ったのである。その間の二週間、こまめに水分を補給し、食事をとらせ、排泄の世話をし、清拭し、喀痰がつまらないか、注意して吸引した介護、看護によって、彼女の命は保たれたものと思う。この症例からケアポートの職員の意識
が大きく変化して、施設での看取りが、ケアポートの大切な仕事とされる様になった。
(カラスが鳴くから)
脳出血で左片麻痺の88歳の女性。ADLは回復したが、移動は車椅子介助。入浴は、デイサ-ビス利用。食も半介助と殆ど寝たきりの方。訪問看護利用。2001年4月頃から、尿路感染でしばしば発熱する様になる。6月にも発熱。日頃から少なかった食欲がさらに低下。家族も最後を予感してか自宅で看取りたいとの希望で、訪問看護に加えて、往診も開始。6月中旬、意識消失。疼痛刺激にもあまり反応せず。喘鳴強く、気管ゼロゼロ云う状態で、家族、特に、夫人は大変気にして、苦しそうと言ので、ハイスコを舌下に使用。呼吸は静かになったが、午後になると発熱すること、時には目を開けて見えるようだとか、発語はないが”暑い”と云ったようだとか、脱脂綿の水を吸ったとか、夫人は色々な話をされる。これから起こる死への経過や死に向かって静かに軟着陸しつつあることを話し、家族も次第に落ち着いてきた。ある朝、屋根でカラスが鳴くので、胸騒ぎがして、慌てて起きてきたら大丈夫で、ホッとしたと云う。在宅での看取りが少なくなった現代では、家で看取ることがこれほど精神的な負担になっていること、一方、細やかな家族の心遣いを感じた。「亡くなる瞬間のこと、四六時中呼吸を監視してる必要はない。生きている間にどうより良く看あげるか、共に生きるかが大切だと思う。」「人知れず、夜中に、静かに亡くなったら、それは大往生です。」「吐いたものが、喉に詰まって亡くなったら、それは看護している人の責任でも、失敗でもなく、吐き出せなかったと云うことが死の自然の状態なのです」。筆者自身、両親を在宅で看取ったときに、妻に言ったことでもあった。6月某日、いびきをかいて眠っていたが、一寸と部屋を出て戻ったら呼吸が止まっていたと云う。とても静かな死であった。当時家で死を看取ることが、家族にとって如何に大変なことかよく判った。しかし、家族の絆を強め、家族として非常に大切なことと実感されたに違いない。「家で看取って良かった」としみじみとご家族には言われた。
(心暖かき人々)
糖尿病で長期間内服治療の90歳の女性。三年前から当診療所に通院。来院時まずまずのコントロ-ルであったが、検査値は次第に悪化して行く。目も腎機能にも問題はない。ゲ-トボ-ルをして、お元気。お年寄りだから大らかにやる積もりであったが、デ-タはどんどん悪化するばかり。呆けの症状が出て、食事も、お菓子も美味しいとどんどん食べ、食事のコントロ-ルが効かない様である。まあ、それも良いか。1月には認知症はかなり進んで、自力歩行もおぼつかず、時々迷う。デイパンツ使用。入浴は介助浴、着衣も半介助、食のみ自立の状態と老化も急速に進んできた。家族に良く見守られて来たが、7月、尿路感染症と陰部のカンジダ感染を発症、急速に食欲減退となり、往診。糖尿病性の昏睡ではないが、次第に傾眠傾向となった。往診とは不思議なもので、患家に入っただけで、患者さんの病室の状況を見ただけで、その患者さんがその家でどの様に扱われているか、およそ判る。長男の夫人は細やかな配慮のある中で、おばあさんは、日頃甘酒が好きで、甘酒なら飲むと云う。どうぞ、どうぞ飲ませてあげて下さい。しかし、翌日の往診では、甘酒も飲まなくなったと云う。そろそろ人生の最後と思われた。長男夫妻には、そろそろ終わりの時期が近づいたことを告げ、ここでは訪問看護等、在宅での看取り支援はかなりのことができることを告げる。兄弟や親戚、知人と会うべき人が訪ねてきて、孫や曾孫も集まって来て、彼女の枕元はとても賑やかである。曾孫が「婆ちゃん食べろ」と煎餅を枕元に置いて行く。訪問看護が動き出し、薬も効いて陰部の感染症は急速に改善していった。8月初旬、一般状態は安定しているものの傾眠傾向は深まり、長男夫妻に死への軟着陸のことを話す。本人の要求に応じて水などをあげること、口腔は乾燥するので、赤ちゃんのように清拭をしてあげること。8月某日、往診。訪問看護の清拭を受けて、意識はないが、気持ちよさそうに眠っている。午後4時、往診中に携帯により、呼吸の停止を知らされる。出来ればもう数日、一生懸命の家族に看病をさせてあげたかったが、やや予測を誤ったと思われる患者さん。でも大往生と言えよう。それに何より、心暖かき家族、本当に心暖まる最後の日々であった。そして、村に在宅での看取りが一般に広がり始める元でもあった。
(がんのターミナルは在宅で)
2003年9月初診の79歳の女性。約2年半余前に子宮の悪性腫瘍の手術を受け、全部摘出しきれなかった様である。外来で経過を追われていたようであるが、本年8月血性のおりものがあり、再発を告げられ、化学療法を勧められたが、入院は嫌だと拒否。肉腫と言われたとのこと、何れにしても適切な抗がん剤はない。膣断端に3-4cm径の腫瘤がある以外に貧血もなく、腹痛無し、食欲良好で、元気。兎に角、経過を追うことにする。
特別の問題なく、受診せず。翌年3月、この頃より鈍い腹痛出現、鎮痛座剤処方する。腫瘤は小児手拳大。6月に入り、性器出血とおりものの量増加、悪臭あると言う。家族にウオッシュレットとビデの情報を伝える。6月末、食欲不振出現、美味しくないという。
血清亜鉛値57で、亜鉛補充療法とステロイドの処方で、体調良好となり、食欲も出る。
その後、胃痛あるも、しばらく小康状態で、ときどき外来を受診。9月中旬、急に疲れが強くなり、外来受診すること不可となり、訪問看護と往診になる。おりものや身体の清拭のこと、排尿や排泄をトイレからポータブル・トイレなど余り頑張らなくても良いように、家族が支えてとか、食欲のない時は余り無理して食べさせなくても要求に応じての飲食で良いことなど家族への教育。家族の看護体制は、孫達が皆で、タッグチーム組むという。泊まり込みや悪臭のおりもののおむつの交換、皆でやるという。往診すると、かわいがっていた犬がベットに飛び乗ったり、猫がうろちょろ。娘や孫が見舞いにと賑やか。09月末、急速に腰が立たなくなり、意識レベルも低下と往診。家族の不安で、一時入院させるとの話も、、、出たが、少量の輸液で、多少元気に。少しは食べたりして、次第に家族も落ち着く。09月27日、往診。本人は、食事は食べられないが水は飲める。今は、特に困ったことなしという。夜はよく眠りたいと鎮静剤の貼付薬をと。09月29日、家族と多くのお孫さんに囲まれて、静かに死去。日頃、お孫さんの面倒を大変よく見られた方だった。
<がんもどき論>
在宅ホスピスでは、悪性黒色腫に膵臓癌、肺癌、肝癌、胃癌等など多くの癌の終末期に、身体的痛みをかなりコントロールでき、よほど特殊な場合を除き、家族の理解があれば、そして、周囲で支える地域の看護力・介護力があれば、病院死より遥かに人間的である。 イヤイヤそれよりも、近藤 誠医師のがんもどき論がある。多くのいわゆるがん専門医には不評な近藤 誠理論であるが、1970年から市立病院の医師として地域に腰を据え、外科のチームを率い、胸から腹部にわたる多くの癌の手術を手掛け、その術後経過が良くも悪くも長期間にわたり、その経過を見てきた医師として、また、30年余の診療報酬審査専門部会員・専門部会長として、県下の高額医療のレセプトは勿論主要ながん治療医療の流れを知り得る立場にあった者として、がんもどき論は100%とは言わないまでも、80%以上は正しい、と考えている。【癌という病名でも、その悪性度はピンからキリまである。あっという間に命を脅かす癌と、殆んど命を脅かさない多くの癌がある。】【遠隔転移をする癌はキッともう微小な時期に転移する。】そして【固形癌の抗癌剤療法の有効性には、多大な疑問があり、まだまだ実験レベルである。(非固形癌の治せる癌の存在否定しない)】【進行した固形癌での抗癌剤療法で、治った癌は正式に見たことがないし、多くの場合、非抗癌剤治療の患者の方が遥かに人間的な最後を迎えてもいる。】と筆者は考えている。
因みに、五年は持つであろうと考えていた筆者の1997年に手術をしたS状結腸癌は、そろそろ術後20年を迎えようとしている。(その後、2018年、更に下位の別の癌手術をし、そろそろ4年が経とうとしている。)決していわゆる早期癌でなく、勿論手術以外に抗癌剤の使用もない。また、必ずしも治ってしまったとも考えていない。小川鼎三先生の名著『医学の歴史』を読めば、その時代、時代に、正しいと信じられ、広く行われていた医療の七割方は間違いであったことがわかる。現代はどうか?謙虚に【医療とは何か?】考える時でないかと思う。
(複数医師体制の診療所)
こうして徐々に徐々に幻想から醒めた職員、地域住民も増え、特養は勿論、在宅の看取りも増えていった。状態が悪化しても、指示に従っての訪問看護の対応は見事であった。 職員の意識の転換が進み、ショート・ステイでは入院医療よりも、ケアや介護が主な脊椎圧迫骨折や尿路感染の一時的な発熱者、終末期で家族が看取り切れない臨終の時期等にも積極的な対応をするようにもなった。さすがに初期の頃は職員も、地域住民も死に対してのストレスは強く、在宅では勿論、施設でも深夜や早朝未明に亡くなられた時には、時間お構いなしに死亡確認の往診が求められたが、次第に看護師も、地域住民も、翌日もフル勤務の一人医師の大変さを察して対応するようになった。確かに日頃の診療所医師の仕事に加え施設や地域全体の看取りの推進は、当然一人所長の仕事量としては多く『これからの診療所は複数体制の診療所であるべきだ。』との小生の言葉に『確かに、1.75人分以上ですね。』と村が早速、複数医師体制を認め、次期の久堀所長就任時は、小生が嘱託医として参加。さらには、奥泉所長時代へと複数体制は引き継がれ、この地域医療・地域包括ケアの方向も受け継がれて今日に至った。ケアポートの【医療幻想から醒めて、支え支えられてより良く生きる地域作り】。更には、出来れば住み慣れた地で、住み慣れた家で、最後まで暮らし続けたいとの多くの人の願いに添って【道路を廊下に、車を足に準えて人が動く、施設のみでなく多彩な選択肢のある地域作り】の新しい挑戦が続いて来た。
因みに死亡診断書の枚数の変遷
(H.12)2000.6.-2001.5. 13枚
(H.13)2001.6.-2002.5. 10枚
(H.14)2002.6.-2003.5. 25枚
(H.15)2003.6.-2004.5. 41枚
(H.16)2004.6.-2005.5. 32枚
*北御牧村(主たる診療圏)人口:約5500名
*診療所は2003年4月より3名複数体制の診療所となる。
<現在の死亡診断書 発行枚数他>
2022年7月。たまたま、第30回若月賞の受賞者として、記念講演をする機会を与えられて、
当時、まとめたこれ等の死亡診断書の枚数の記述を見て、現在の東御市立みまき温泉診療所の
斎藤 文護所長に、その後今日までの『ケアポートみまき』と診療所活動状況を示す指標の一部の諸表をいただいた。講演レジメに示すが、紆余曲折はあったが、【種】の発芽の状況が窺える。
【今こそ診療所の時代】
私は、大学病院に約7年、市立病院に28年余、診療所の医師として5年の経験を持っている。その後10年ほど、診療所を含む保健・医療・福祉の総合施設『ケアポートみまき』の全体を俯瞰することが可能な社会福祉法人・みまき福祉会の理事長を10年ほど勤める機会があった。その間に三回ほど入院・手術の経験もある。今、医師として振り返ると、現在、病院(大学病院含む)に受診している外来の約8割、入院の7~6割の患者さん達は、『地域の条件』が整いさえすれば、在宅(診療所の医療)の方が遙かに適切な医療の場であると考えている。本来は、多くの医師が、特に、経験豊富で広いすそ野の知識を持った医師が、地域で生活する人々がより良く生きることを支え、病院医療が必要な特殊な患者と一般の患者を分別して、適切な医療の場を地域住民に示す『医師の役割』を担なうべき時期に来ていると、私は考える。今こそ、診療所の時代である。
診療所の機能は大きく分けて、五つにまとめられるかと思う。第一は、患者さん自身は勿論のこと、家族やその周りや地域の状況も良く知り、患者さん一人一人に適した全人的医療を行うこと。第二には、その患者さんにとって、診療所の医療がより適しているのか、病院の医療、特に、入院の医療が良いのか、それとも、在宅や施設の医療・看護・介護がより良いのか。患者さんは勿論のこと、家族の考えや多くの関係者の専門的な意見を含めて検討し、医師として総合的に判断し、助言できること。第三には、住み慣れた地で、住み慣れた家で老後を過ごし、出来れば、家族に囲まれて、人生の最後を畳の上で迎えたいという多くのお年寄りの願いを、一人でも多くの人々に叶えてあげられること。それには先ず、医師自身が現在の医療幻想から覚め、人生の大切な最後の時に、無駄なハイテクの延命医療から、幻想に巻かれたお年寄りや地域住民を守り、出来るだけ自然の最後を迎えさせてあげられる様に支援すること。第四には、地域の住民が、出来るだけ健やかに生き生きとその地で暮らせるよう、健康の保持、増進も含めて、多くの人々や組織と協力して、その活動を医療の面から支援すること。第五には、医療の総合的な専門の立場から、現代の医療について、地域住民の知識を深め、個々の医療相談にも乗る、いわゆる医療の弁護士的役割を果たすことではないかと考えている。その様な地域医療を担う診療所や諸施設が全国各地に、一つでも多く出て来て欲しいものと思う。しかし、そうは言っても、これまでの経験を通して、容易にその様な地域医療が進むとは思えない。10年、20年かかって実現するかも、しないのかも判らない。医療幻想と言っても、医師をはじめとして一般の人々に必ずしも容易に納得されるものでないことも、良く判っている。ただ、多くの人がはっきり意識していないかもしれないが、【医療は、ホメオスターシス・生物学的恒常性に支えられて、存在する】とのことに異論を唱える、傲慢な人は少ないものと思う。【ホメオスターシス】、多くの人々に意識して欲しいものと思うが、少なくとも多くの医師達がこのことを常に意識することにより、現代の医療がかなり変わるのではないかと思う。
<人間万事塞翁が馬>
亜鉛欠乏症についても講演できることとなった。2002年秋、フトしたことから『多くの医師が考えているよりも、遙かに多くの亜鉛欠乏症患者さんがいる。』ことに気付きました。その症状は日常の臨床でしばしば経験するものでも、①味覚障害、②食欲不振、③舌痛症、④褥瘡、⑤多くの皮膚症状・皮膚疾患などの五大症状・疾患が上げられ、更に亜鉛の多彩な生体内の機能を考えると、更に多くの症状・疾患の存在も考えられました。また、発症した患者さんの多さから、地域住民の亜鉛不足の可能性が予測され、地域住民の調査が望まれると診療所で話していたら、村の理事者や議会が2003年に予算を組んでくれて、地域住民の血清亜鉛濃度の疫学調査が実施され、1431名のKITAMIMAKI Studyとして、村民の亜鉛不足の存在が予測され、更に日本国民にもその傾向があること判るなど亜鉛欠乏症の存在の確かさも確認され、亜鉛欠乏症が社会に広く
認知される原動力ともなった。この様なことは佐久の地では、全く考えられもしないことであった。正に、<人間万事塞翁が馬>とつくづく思う。
85歳に至る人生で本当に多くの方々に支えられ、現在があること、心から感謝を申し上げたい。
【国民健康保険法、介護保険法に欠けていること】
最後に、東御市の主として北御牧の地を中心に、この様な地域医療の種が実ったり、ふと気付いた亜鉛欠乏症と言うかなり珍しい疾患を、この様にここまでまとめることが出来た余裕があったのも、『ケアポートみまき』の建物の建設と改修などに、日本財団の “ケアポートモデル” 事業として、一定の資金が出ていることを報告しておきたい。
(この資金が何らかの方式で各地域に準備ができれば、全国各地で同様の地域医療の種が結実することを示したと言えよう。)